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2016年05月30日

【速報】おおさか維新の会、下地島空港の米軍訓練実施を提案


本日5月30日、宮古島にいて突然飛び込んできたニュース。おおさか維新の会の松井代表と下地幹郎が宮古島へ訪れて、宮古島市副市長と面談し、下地島空港の米軍訓練実施を提案しました。

以下、宮古テレビからの文字起こしです。

「おおさか維新 下地島に米軍訓練を提案」
宮古島市副市長長濱政治副市長と面会し、下地島空港でのアメリカ軍の訓練実施を提案しました。

下地幹郎衆議院議員らと宮古島市市役所を訪れた松井代表は、次のように述べました。
「民間と一緒に米軍の訓練も出来るんじゃないかと思っていまして、普天間から辺野古へというだけでなく違う案もあるんじゃないかなと、負担軽減 訓練軽減については」

松井代表らは、30日午前中に下地島空港を視察しおおさか維新の会として、参議院議員選挙の公約に、普天間飛行場で行われているアメリカ軍訓練の下地島空港への一部移転を掲げる意向を固めたということです。

松井代表への質問→訓練地として優れている点は?
3000m級の滑走路があること
周辺に民家がないということ
(私有地ではなく)公有財産であることは、非常にメリットだと思う
民家がないのが一番メリットだと思う

下地幹郎議員は地元から反発の声が予想されることに対し次のように述べました。
「普天間が苦しんでいる状況 危険な状況であるのをどうするかというのは、沖縄県民全体で考えなければいけないということになるんで、代表がおっしゃるように反対する人はいるので、馬毛島でも佐賀空港でも反対する人はいるし、そういうのを本気で口説こうと思うかどうかだけの話じゃないですか。」

提案を受けた長濱副市長は次のように述べました。
「特に下地島の訓練飛行場は、国策で民間の訓練飛行場として作られているわけですから、それをないがしろにしたままで米軍の訓練という話は相当抵抗があるだろうなと思う、市としては多分簡単にオーケーというわけにはいかない。」

下地島空港は県有地で、県が事業を公募する形で利活用案を取りまとめています。
最終候補として、国際ターミナル整備事業や小型機のパイロット養成事業など、4つの案に絞り込まれていますが、長濱副市長によりますと、取りまとめ作業は難航しているということです。

松井代表らは下地島空港の視察に先立ち、沖縄県の翁長知事にも同様の提案をする予定でしたが、知事がこれに応じなかったということです。



















  

Posted by Moist Chocolat at 23:47Comments(0)

2016年05月27日

奄美大島での同時進行する矛盾。


奄美大島は総土地面積の84%が森林に覆われている緑の島である。かつて、シイ類を中心とした広葉樹の原生林が広がっていたが、昭和10年ころから線路の枕木用として大量の伐採が始まり「東洋のガラパゴス」と言われる貴重な生態系を育む原生林は30%まで落ち込こんでいる。その後外来種の松が持ち込まれたが、現在では新緑の森の中に赤茶けた木が点在しているのが目を引く、松の立ち枯れが始まっているのだ。
36年間山に入り続けて動植物を観察している常田守さんによれば「心配することはない、奄美が自分の力で森の再生を始めたのだ、100年1000年かけて奄美は自然の力でその姿を取り戻すだろう」と、その言葉を聞き、私たちは壮大なスケールの時間軸のほんの一点なのだと改めて感じた。破壊と再生が進むせめぎあいの中で人間の葛藤が続いている。このまま乱開発に依存した経済の果て、自滅への帰路に立たされている、そんな危機感を覚えざるを得なかった。

奄美大島の中央には国道58号線が走っている。南北をまたぐ国道の所々はトンネルになっており、いかにこの島が切り立った険峻な山で囲まれているのかがわかる。奄美市役所が置かれている旧名瀬市の一帯も平地が少なく、新興の商業地域や港湾の多くは埋め立てによる敷地造成に頼った都市計画が進んでいる。地元の人によればチリ地震の時には膝まで津波が押し寄せてきて冠水したとも聞いた。
その国道58号線を北部にある名瀬から南下し、陸上自衛隊基地の候補地があると言われている節子(せっこ)集落へ向かう途中驚くべき光景を目にした。国道のすぐ脇の山が丸ごと削られていたのだ。噂には聞いていたが、辺野古新基地の埋め立てに使う「岩ズリ」と呼ばれる埋め立て用の土砂を搬出している最中であった。新緑の山と、はぎ取られた土色のコントラストが痛々しかった。
この広大なむき出しの土壌からは、雨が降るたびに大量の土砂が海へ流れ込み、奄美の海の生態系を破壊しているという。土石を受け止める鎮静地は溢れ、海域への流出の報告が度々寄せられている。今年4月には砕石地の山が崩れ、車道に土砂が押し寄せた結果、集落が分断されてしまうなどの事故も起こっている。地元紙「南海日日新聞」がこの岩ズリの一連問題点の取り上げて記事にしたところ、部数が減ってしまったという。その記者は勇気をもって記事を書いたのだが、その後の続報がないところを見ると、地元からの圧力は相当なものなのだろうと想像する。この岩ズリの件が辺野古の全国的な報道の陰に隠れているのは、報じる動きが少ないことによるのだろう。また、これらの砕石地の岩ズリが兄弟島である沖縄に運ばれることをようやく知り始めた住民も多く、これまで続いてきた奄美と沖縄の関係を加害者と被害者の立場に変えてしまうことを懸念する声も起き始めている。
現在でも休むことなしに岩ズリはダンプで運ばれ、集積場に積み上げられており、いつでも辺野古の海を埋め立てる用意が進んでいる。日本政府の沖縄に対する思惑は、フロートが撤去されようが、奄美での搬出作業が止まっていない現実が証明している。

辺野古の海、大浦湾は沖縄県内で残された数少ない自然湾である。綺麗なブルーの海とサンゴのイメージがある沖縄だが、沖縄本島の北部より下のほとんどが人口湾に変わってしまっている。残されたサンゴの海を耐用年数200年のV字型滑走路を併せ持つ新型の軍事基地に作り替えるため、必要としている岩ズリは南日本の各地から運ばれてくるのだ。空前絶後の総量は2100万㎥、九州・瀬戸内の7地区13箇所の現地から見れば、西日本の自然を壊し山を削り持ち去ろうとしているように感じている。また埋め立てに伴ない発生するであろう懸念の一つに生態系の汚染がある、様々な微生物や小動物・種子などを含む土壌は沖縄の生態系を変えることにつながるのは明らかである。遠く海を隔てた地域から調達し、海上輸送を行うには1200億円もの国費が必要と試算されており、文字通り海に税金を投じることになる。相互に貴重な生態系を有する山と海を並行破壊するのも二重三重の悲劇が各地へ積み重なる暴挙だが、この海を失うということは沖縄の記憶の文化的な源泉を失うことに等しいのだと思う。問われているのは、奄美・瀬戸内海・沖縄に住む人々の未来への想像力との戦いでもある。

現在奄美大島は世界自然遺産への登録を目指している。ただし、世界遺産登録へは越えなければならないハードルがいくつかある。まずは登録の前段として国立公園化が必要である。今回の計画地域内に民地があり、土地を所有する県内大手企業と用地買収交渉をしなくてはならない状況に陥っている。2016年の世界自然遺産登録が用地買収の困難さを理由に延期されたが、防衛省は2018年の配備を目指している。この二つの時期が近接しつつあるのは客観的な事実であって、最終的には閣議決定が必要になる。
私が奄美大島を訪れて感じたのは自衛隊配備と岩ズリ搬出の問題と世界自然遺産への登録という、相矛盾する課題への腑に落ちない違和感であった。この島では今のところ二つの問題に関して大きな議論は起きていない。しかし、この問題を突き詰めていけば必ず奄美の自然環境へとたどり着く。この二つの問題を島に住む一人一人が考える主体になって行動するところから、成長と成功体験を積み重ねて行く、その過程にあるのだと思っている。現時点での世界自然遺産への登録へ関わっているのは、中央の役人と御用学者の構成の感が否めないとはっきり明言しておく。地元には素晴らしい人材もいるが活躍のチャンスを失っている。重要なのは上から自動的に降ってくる果実やお金ではなくて、下からのボトムアップであろうと、問題意識を共有するたくさんの人に会い口々にそう語ってくれた。陸自配備の住民説明会は未だ開かれていないが、たとえ開かれたとしても防衛省主導の既成事実化の説明会であってはならない。まずは市政が陸自配備と岩ズリの両問題の責任の所在を防衛省に丸投げするのではなく説明責任を果たすところから始まるのだと思う。今必要なのは市民の話し合いの場を行政が作ることである。これらが出発点となり成功体験が積み重ねていければ、奄美の世界自然遺産への登録の道筋は自ずと見えてくる。祖国復帰をいち早く果たした奄美の人々の熱い思いは、99%の住民が署名し熱望した「奄美の奇跡」として語られている。
全ての課題と全ての資源は目の前に明らかになっているのは幸いだ。着実にプロセスを踏めば本物の自然遺産を子々孫々へと残す世界自然遺産登録への動き「奄美の奇跡」が起こる日は近いのであろう、そう思っている。






  

Posted by Moist Chocolat at 17:01Comments(0)

2016年05月25日

奄美大島、陸自配備予定地へ行く



奄美大島で進む陸上自衛隊基地建設の取材に入った。
ネットでも新聞報道でも奄美の基地に関する情報は異常に少ない。それが、実際に見てこようと思ったきっかけでもあった。

まず、何か所かある候補地の一つが節子(せっこ)と呼ばれる奄美大島の南部にある瀬戸内町の現場。
地元の協力者を得て、どこに何が作られるのか探るために車を走らせた。

奄美大島は険峻な山岳地系にある島で、平地が少なく山間に切り立った道を行かなくてはならない。
ほぼ限界集落に近いのではないかと思われる節子にたどり着くと、小学校の廃校があった。地域にはまだ住民が住んでいるのだが、小学生などを持つ家庭は廃校に伴い、すでに別の地域に転出しているのではないかと思われた。奄美大島で漠然と言われているのは、節子の集落の上の山にある養豚場の跡地に自衛隊基地が作られるよ、との口伝であった。

地域の人に道を聞き山道を進むと、節子最終処分場の看板が見えてくる、それをさらに上に登れば、昔の養豚場があるはずだから、そこが基地建設予定地とのことであった。
ここ、奄美大島では自衛隊配備を巡っての住民説明会は未だない。先に瀬戸内町町長選挙が行われ、その後の補選でも自衛隊誘致を掲げた候補が当選するなど、選挙が住民の意思表明の場でもなく受け入れられたのだろうと、巨大公共事業に翻弄される自治体によくある賛成反対のプラカードなどはなく、果たしてこの集落にそのような大きな問題が降りかかったのであろうかと錯覚するほどに、静かな集落であった。

教えてもらった通り、ペンキの禿げた木製の最終処分場の看板があり、山頂への細く荒れたアスファルトの道路を登っていくと、整地された敷地があった。そこを見ただけでも山がちの地形にしては何らかのあらかじめ用意された平地に雑草が少し茂っているだけであった。しかし、今のところそこが陸上自衛隊の配備されるミサイル基地になるのか、どういった用途での土地収用を図っているのか全く分からない。何も分からないままひとしきり車上から見た後、さらに上への道があるので進んだ。
頻繁な交通など皆無な気配を漂わせる道路を300mほど登りながら進む左手に、金属の骨組みを残した廃墟が見えた。入口はチェーンで封鎖されていた。ちょうど霞がかかり始め、静立する廃墟の荒い骨組みの列を迷いながら、徒歩で探索の手を伸ばそうかと迷いあぐねていたとき、入口にダイハツのジープが止まった。

誰もいない静けさの中で突如現れた車に、全身からざわっと警戒のシグナルが走った。陸の孤島で出会った車二台。止まった車の中の男二人は水色の少しこぎれいな作業服を着ていた。片方はiPadをもち、こちらをうかがいながら片方は携帯で電話をしている。
近づいて話しかけることを選んだ。
タイミングを見図らい近づいてガラス越しに、少し困った顔をしながら声をかけた。
「役場の方ですか?」
「いえ違います」
「養豚場の関係者ですか?」
「いや、調査できています」
「ここが自衛隊の基地建設予定地になると聞いてきたのですが、ご存じですか?」
「ああ、それならここです」
「下にも大きな敷地がありましたが、あそこは何ですか?」
「あそこは残土処分場で、工事で出た土砂を置いておくための場所です」
と、あっさり答えてくれた。
「山ん中でここしか電波が通じないから来てるんですよ」
と、お互いになのか、一方的な警戒感を抱きすぎたのかよくわからないまま、とりあえず奄美大島で陸上自衛隊が基地建設の候補地として選んでいる跡地に無事にたどり着くことができた。
しかも、あやふやな口伝ではなくて、調査員から教えてもらったという結末。

今は静かに、人の接触を拒むような山頂にある廃墟が、再び人間の手で開発というラッシュに沸くことはあるのだろうか。
しかし、ここに施設を作ろうとしているのは、現実世界に於いては確かなのだ。
現場を見てきて、時間と空間を超えたような山奥で何が起ころうとしているのか、現在の触覚からはわからない。とにもかくにも実際の養豚場にに跡地にたどり着くも、全く不思議な感覚であった。












  

Posted by Moist Chocolat at 17:50Comments(0)

2016年05月23日

魂の冥福を祈るハーベールー(蝶)のプラカード


4月末より行方不明になり、5月19日に恩納村の山中でうるま市の20歳の女性が遺体で見つかった。


容疑者である元海兵隊の軍属から、レイプして殺害したのだという供述が出てきている。


22日2時、在沖縄米軍の司令部が存在するキャンプ・フォスターゲート前でおよそ2000名が集まり、静かな抗議活動が行われた。


沖縄・日本・米国の関係が改めてあぶりだされた今回の事件には、奪われた尊い命がある。


幾度となく繰り返される事件事故に怒り、悲しみ、荒ぶる心を鎮められない。


しかし、ひと時の感情の爆発に、被害者への想いを残す家族友人を巻き込んではならない。


加害者の家族をも、人と人が争う対立に巻き込んではいけない。


軍隊は攻撃性を高められた個人の集まりであり、攻撃の対象を人間として見ないよう教えられえる。


それらの暴力性はフェンスの内と外を問わず、いつでも沖縄の日常に流れ込んでくる危険性を孕んでいる。


被害者も加害者も全ての人を破壊しうる構造的暴力の問題に向き合うことを迫られている。


今回のサイレントスタンディングでは「ハーべールー(蝶)」のモチーフが掲げられた。


沖縄では蝶を、魂を運ぶ存在、魂そのものの化身としてとらえている。


構造的暴力に立ち向かうには、ひとりひとりの魂を高め立ち向かおうとのメッセージが込められているのだと思う。


基地周辺を取り囲む行進とアピールの参加者からは、静謐の中に深い怒りと悲しみが込められていた。


沈黙の中に宿る圧力、これは沖縄が選択した新しい魂の闘いへの始まりなのであろう。









  

Posted by Moist Chocolat at 12:27Comments(0)

2016年05月13日

防衛省の348億円の投下、与那国島の何が狂ったのか。

与那国島での陸上自衛隊配備に関わる費用を防衛省に問い合わせたところ回答が出たようです。このデータは与那国島の明るい未来を願う「イソバの会」の本日のブログからの情報です。
質問: 与那国島への自衛隊配備について、年度毎の決算額とその内訳が分かる資料
回答:
   平成23年度 約0.2億円
      
      内訳:施設整備費 約0.2億円
   
   平成24年度 約1.7億円
      
      内訳:施設整備費 約1.7億円
   
   平成25年度 約69.9億円
     
      内訳:施設整備費 約27.8億円
        不動産購入費等 約 5.9億円
        通信機器購入費 約36.2億円
   
   平成26年度 約234.9億円
      
      内訳:施設整備費 約205.6億円
        不動産購入費等 約 0.2億円
        通信機器購入費 約 29.1億円  
   
   平成27年度 約42.0億円
      
      内訳:施設整備費 約41.8億円
        不動産購入費等 約 0.2億円 
                       合計 348.7億円
人口わずか1500名、周囲27キロの、日本で一番西にある小さな島にこれだけのお金が投下されたことが、現在・過去・未来へどのような事態を生み出したのかは、賛成反対に関係なく知っておくべき事実だと思います。沖縄の貧困と社会福祉の財源が、防衛とセットで問われたことはないと思います。これだけの税金が軍事に費やされている。
先島への自衛隊配備の経緯については、沖縄の2紙も大きく報じることのない、防衛の空白ならぬ、情報の空白を生んでいます。辺野古での新基地建設に端を発したオール沖縄の運動と、先島への自衛隊配備の問題は全体としてリンクしておりません。
経済的に弱い自治体を助けることなく、利用する。この構図は、国家が助けてくれるのだからという国民の思考停止を利用して、アメリカの軍産複合体や日本の経団連が主導する軍事ケインズ主義と安倍首相が目指す第三の矢の布石にもなっています。
日本は戦後70年平和を保ってきたのかというと、そうではないと思います。朝鮮戦争とベトナム戦争の特需を契機として復興したこの国の姿は少なからず戦争に彩られた過去があります。日本の国外で戦争が起きればいいのにと、発言した人物がいますが、状況はまさに武器の消費地を探すために、捨て石を必要としており、次のターゲーットとしてあげられているのが先島なのではないでしょうか。
詳しく説明すると膨大な文量になってしまいますので、それぞれが与えられた情報ではなく主体的に情報を読み、さらには発信する主体者になることを望みます。
経済的な繁栄と無縁であった自主独立の、文化に包摂された社会の原型を残している与那国島は、経済至上主義の浸食が最も遅く到達した島であるとも言えます。全てのコミュニケーションをお金を介した経済への収斂へ、疑問の声を上げるべき多様性の発信はどこかということ。日本を美しい国と呼ぶなら、日本のアイデンティティーの源泉はどこにあるのか、日本最西端の島から中央へ問わずにはいられない。常にそんな気持ちを抱えています。
一人一人が声を上げる主体者にならない限り、現行の民主主義という政治状況では解決することはありません。なんとなく希望的な観測に振れるのかなという幻想は横に置いて、地域の人間が最も強く現状を把握する事が重要だと考えています。あきらめない事を課されているのが人間ではないかと、一人の人間に宿る実存を私は自身に問います。数々の自然災害を前にして、問われるべきは個々人の有り様ではないでしょうか。
本来は縮小型社会への移行を迫られているはずの日本で、これから同様に計画されうる、石垣島、宮古島、奄美、辺野古と高江も含めて社会はどこへ向かおうとしているのでしょうか?
一人一人の平穏な日常を願う気持ちはみなさん一緒であると思います。しかし、戦争の記憶も薄れ、語り継ぎがなくなりつつある社会はまともな社会なのでしょうか?
同時代の享楽を自然から収奪するだけで、歴史から断絶された個人がバラバラに存在する状態を社会とは呼びません。社会というのは世代を超えて自然環境の継続と、伝承が起こる自発的なコミュニケーションのことを指し、この総体を文化と呼びます。
戦禍の記憶を残す人々に深く刻まれた継承は、果たしてなされているのか、この沖縄に於いても、先祖崇拝の伝統は残りつつも、社会共同体の繁栄を願う自然崇拝の念はもはや薄まりつつあると私は見ています。
人は同じ過ちを必ず繰り返すという愚を、過剰開発が進む沖縄の現状と、現代の時代状況を戦争へひた走った過去を重ねて今に見るに、忘却の時を経て歴史は繰り返され、警告の言葉を与那国島から発することは、日本が捨て石にした沖縄と先島への贖罪の念をヤマトの人間として禁じ得ないからです。
先島への自衛隊配備と、戦端を拡大するに等しいこの行為は、今後どれほどの兵站の供給コストとして国民に跳ね返ってくるのか、陸自は試算していないのでしょう。国防と自主防衛の観点を真剣に論じるなら、先島への陸自の配備は、バランスとコストの面で甚だ疑問です。
ハードを整備すれば事足りるとの認識は、全国に中国脅威論として蔓延していますが、主体者としての自覚を問われてしかるべきだと思います。国内世論の反面、琉球が武器を持たずにソフトウェア防衛で歴史を生き抜いてきた事実もあります。軍拡が止まらない殺し合いの歴史的な背景に抜けているのは、一人一人の織りなす社会の力が戦争をさせないということではないのでしょうか。
官僚組織としての防衛省は、「今だけ、金だけ、自分だけ」なのではないか、末端の国民を戦争の被害に晒したのも今と変わらぬ上層部のあり方は、与那国島と防衛省との対応の一つ一つを取っても変わらないという実感があります。
米国のシュミレーションの話ですが、制空権と制海権を失うことが明白な状況で、沖縄の航空機戦力40機対320機の台湾正面に位置する沖縄の現状で、日本は1400発と言われるミサイルの射程に収められており、米軍は日本を防衛するために駐留しているわけではないことは公文書で示されている通りの事実です。
原発を海岸線に並べたまま開戦するのも狂気の沙汰ですが、陸自のミサイル部隊が先島に次々配備されることは国防なのでしょうか?
離島奪還作戦の、奪われた後奪いに行くという不可解な戦略のもとに、最初から配備せずにバッファーとして国境は歴史上機能してきた事実も真剣に議論したいと思っています。
与那国や今後配備される部隊を含む西部方面隊が、先島の配備の主力になるとみられていますが、家族を最前線に連れてくるという危険性を最も認識しているのが自衛官なのです。
第15旅団内部のアンケートで与那国島へ赴任したいか、というアンケートに部隊内で赴任を希望する人間はゼロであったと聞いています。さらに家族を連れていればなおさらです。
自衛隊の与那国島への基地配備の長い議論を経て、共存関係を余儀なくされた与那国島だからこそ、日本のメディアは取り上げませんが、世界はどのように見ているか、国境の小さな島社会から、日本という島社会へ国防とはなんなのか、疑問を投げかけたいと思います。
  

Posted by Moist Chocolat at 04:31Comments(0)

2016年05月06日

石垣島の米軍統治下で作成された戦略地図。

石垣島に住む山里節子さんは1955年、米国内務省ヘレン・フォスター女史を団長とする地質・土壌・植生の学術調査にフィールドアシスタントとして参加した。沖縄本島での全域調査は、1950年から朝鮮戦争の混乱をはさみ、1955年に完了。その後の2年間で石垣島と宮古島を調査するものだった。
戦後の傷跡も残る沖縄で当時、英語を学ぶことが生きて行く為に最も必要な事だと考えたという。英語学校に通うなかで、山里さんの生まれ故郷であった石垣島での土地勘が評価され、通訳とフィールドアシスタントとして米国の調査団に採用された。

2年間にわたる調査結果は膨大な地図となり、後にレポートと共に山里さんに記念として手渡された。後年、その地図を詳細に調べて行くと、それは単なる地質学の調査ではなかった事に気がついたという。
この調査結果はワシントン経由でペンタゴンに送られ、軍の上陸攻撃地点や軍事施設の建設場所を示す戦略地図となっていた。さらにその地図は旧日本軍の作成したベースマップが元になっていたことを知った。

当時、ソ連とアメリカの対立が深まる最中、反共の砦として石垣島を含む先島諸島が軍事要塞化されたかも知れない可能性をこの地図は示唆している。 ベトナム戦争に於いては「悪魔の島」とも呼ばれた沖縄が軍事基地への傾斜を余儀なくされたように、先島が東西の戦火の最前線にならなかったのは、歴史の僥倖と呼ぶしかない。
精緻な調査は、軍港を作る際に必要な水深のデータ、基地建設に適した地盤や建設資材となる岩石の調達地や地形植生が書き加えられている。

“Know Your Enemy” 「汝の敵を知れ」との言葉の通り、アメリカは先島諸島を徹底的に研究し、支配しながらも、最悪の事態を想定していた。島々を戦場にする計画と同時に、奪還攻撃をも視野に入れた壮大な戦略を見通していたことに戦慄を覚えたという。
生活の為とはいえ、自分の英語力が結果的に軍の戦略研究に加担してしまった事を今でも悔いていると山里さんは語る。

1979年、かつて石垣島で白保の海を埋め立てて飛行場が作られようとしていた時、彼女自身反対運動にも関わった経験があり、この時の計画立案も地図が元になって進められていると危惧したという。幅65m×2500mの滑走路は不釣り合いに巨大な計画であり、民生用だけではなく、軍事施設への転用が可能になると訴えた事もあった。まさに海洋のシーレーン構想は、旧日本軍の時代から、アメリカ統治、沖縄振興の空港建設から、現代の自衛隊配備問題まで脈々と繋がっていると、今でも警鐘を鳴らしている。

現在石垣島で陸上自衛隊が基地建設を進めようとしている。今だからこそ、贖罪の意味を込めて61年前の地図を公開していると涙を流し語る場面もあった。
石垣島の山里さんに手渡された地図は、学者であったヘレン・フォスター女史と彼女の間で受け渡された歴史のバトンなのかもしれない。当時、沖縄を支配する側であった米国と、石垣島の未だ若き佳人が出会い、どのような友情が交わされたのか、直接私に問いかける言葉はなかった。国境を越えて、南洋の宝石のような新緑の島で過ごした2年間は、国籍の違う二人を結びつけたのかもしれない。

フォスター女史は彼女に地図を渡した時に「公共のために使って下さい」と言ったそうだ。
合計2時間にも及ぶインタビューの中で、いまや80歳に成ろうとしている山里さんの石垣島への想いと、色あせない輝きに素直に心打たれた。きっと平和の命脈を繋ぐのは人と人の信頼であろうと、この地図を巡る国家の思惑とは別に、立場を超えて人は人である。強く生きようと二人の女性が暗黙のうちに交わした約束は、今の私には想像するしかない。だが、光は今も輝き続けていると感じる。言葉と歴史の洗礼を超えて地図が生き続けた事実と、積み重なった物語りの重みだけが全てを表していた。二人が交わした平和への希求に、語り得ぬものは沈黙せねばならない。






  

Posted by Moist Chocolat at 20:41Comments(1)