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Posted by TI-DA at

2013年05月12日

母系社会論

アインシュタインは、宇宙の果てが見える望遠鏡を覗けば、自分の後頭部が見えると言った。
もの凄く複雑に見えるものも、実はひどく単純な組み合わせによることが多い。

社会は複雑怪奇で理解しがたいように見えるが、本当は3歳児の行動のなかにすべて含まれていて、その延長線上に現代がある。
そのあまりにも単純な本質とは、社会を定めるものは欲とコンプレックスだけだと言うことに尽きる。
母系社会を最初に否定し始めたのは、西洋文明である。
女性の卵細胞が発見されたのは1827年で、それまでは目に見えるかたちで確認できていた精子だけが子供の性質を形造るのだと信じて疑わなかった、女性は受動的な畑であり能動的に蒔く種こそが尊いのだ。
これがヴァチカン・キリスト教の女性観である。
世界はカトリック(普遍化という意味)の波にさらされ、母系社会は歴史上から消されようとしている、このあまりにも単純な事実を、あらためて見抜く必要がある。

家族・国家・私有財産というものは、単に男の女性に対するコンプレックスから成立する原理である。
軍事、科学、原発も、女性の出産能力に対する男たちのコンプレックスの所産である。
原始の人間が、群れ社会だったとき、自由性交が母系氏族社会を作る。
なぜなら、親子は母子しか確認できなためだ。
やがて人が増えて同族間闘争が多発するようになると、実質的な暴力の力で優る男の発言権が増大し、群れのボスに君臨する男系社会が始まる。
群れの長は、自分の力が衰えようとも、力を維持したいと願う。
農業社会の発達と共に実質的な力は、権力と財産に形をかえて母系ではない男系の自分の子に継承される。
そのシステムを維持するため、母親に貞操を要求するようになる。
オスの生存本能の観点では、多くの生物にとって射精を果たした後の、種の保存に関して、貞操を求める感情があるのか、愛情が介在しているのか、ドーキンス的な遺伝子の指令が働いているのかそれはわからない。
しかし、男を頂点とした家族という最小単位のコミュニティーが成立して現在に移行していることは間違いがない。
そして男系部族社会は競争によって国家へと成長する。
その後、男系社会になっても、男はもっとも大切なものを生み出せない。
それは人だ。
ミクロネシア・ポリネシアの島々の母系社会で最も価値ある存在が女性であった。
繰り返すが女に比べて男は何も産まないからというのが彼らの論理である。
原始社会では労働を化石燃料に代替できない、知識のネットワークもアナログに依存している。
つまりマンパワーの比率が現代よりも大きかった。
しかし力の源泉である人間を生み出すことが男には出来ない。
これが、男の女に対する究極のコンプレックスとなる。
男は次に、女の出産に対抗するため、自分が神になることで、上位に立つシステムを考えた。
世界中の男社会文明が壮大な神殿を作り、聖典を意図的に編集した。
それでも自分のエラさが虚構にすぎないという不安に追いつめられ、国家の拡大を図るが、男は虚構しか生み出せない。
依然として、女は地上で唯一の真実、実体を産み出すことができる存在なのだ。
男は永遠に虚構を目指し「よりよきもの、より凄いもの」という価値観の競争を始める。
幸せの代替品たる虚構を生み出しては見たが、一向に満たされないまま無限に求め続ける、これが競争社会の本質だ。
虚構を生み出しても満たされない後ろめたさがつきまとう、それは出産能力に対するコンプレックスに他ならない。
ギャンブルに負ける人間が、次は絶対に勝つはずだと、際限なくはり続けるように、虚構は肥大し、国家の拡大、軍事の拡大、科学技術の拡大が虚構を担保する幻想の社会へと突入し始める。
この虚構は、あらゆるものがお金という尺度で計れるかのような幻想も生み出した。
男と女の間に打ち込まれたお金という楔が人をバラバラな個人に分断し、個人・家族・共同体をバラバラにすればするほど経済は膨らみ、お金がお金を生み出す実体のない金融工学に発展した。
女性にモテたい男が車を買い収入を競い、女が偽りのステータスに幸せを求めても楔に気がつかない限り、回し車の中で走り続けるしかない。
強い者が弱い者から奪い安く仕入れて高く売る、このシステムを地球という閉鎖系でゼロサムゲームを続ければ破綻は目に見えている。
走り続ければ続けるほど世界は壊れていく。
飢餓、貧困、暴動などの不幸の始まりは、男女の間に打ち込まれたお金に由来するものである。
戦争も然り。
こんな流れを見れば、女性の貞操を拘束し、女性を自分の私権に貶めようとするコンプレックスと欲望から無限の競争社会を作り出し、その果てに核兵器と原発が登場したことが分かるはずだ。
技術の社会的制御と欲望を資本主義の中でバランスさせるほど人間は賢くできていない。
原発は男社会の終焉告げる崩壊の象徴なのである。
原発の本質は女性コンプレックスだったと、賢い人間は気づき始めている。
3歳児だった男社会が終わり、これから人類は再び女性社会に回帰するのだと。

母系社会の果てに何があるのかはわからない。
我々は、今よりましな社会制度を模索し続ける他ないのかもしれない。
どんどんと法律を作り続けシステムに依存する超監視社会の事をデストピアという。
近視眼的な善意が無数に集まり一歩一歩進んでいるつもりが文明を後退させているのかもしれない。
反面、私たち生命が生まれ、気の遠くなるような歴史を重ね、間違いながら人類は命をつないできたのも事実だ。
だからこそ、未来を目指すのならば、歴史を学ぶ必要がある。
螺旋階段を登る人類の姿を真上から見れば同じようなところをグルグル回っているように見える。
横から見れば確実に上に登っている。
未来・現在・過去のパースペクティブを持てば、上下を挟まれた狭い通路を歩かされている訳ではないことに気がつく。
これほどまでに不完全な我々が生まれてきて、命をつないできた重さを受け止めるのならば、人間は人間を信じて創造性を発揮する自然な感性の発露の先に新しい未来が開けているのだ。
自分の意志で階段を少しづつ登っている実感こそが未来なのである。

アインシュタインはある意味男性社会の象徴でもあった。
量子力学に対してなにか頑なだった彼の生涯も、名声が高まれば高まるほど不安とコンプレックスに苛まれていたのだろう。
軍産複合体という巨大な男社会からはヒーローとして祭り上げられ、学者としての信念と守るべきもの矛盾に戦い続けた苦しみを私は垣間見るのである。
歴史は漸進しアインシュタインの理論も終わりを告げている。
凶器のような男性の知性と飽くなき努力が荒れ狂った戦争の歴史もひとりひとりの男の満たされなさの裏返しでもある。
こんな男たちがあふれかえって今、社会中で立ち止まり始めている。
男に充足感と安心を与えてくれる女性の力を社会の原動力にした母系社会へとシフトさせることが必要な時代に来ている。
女が男に差しのべる手はきっと未来を良い方向へ導くはずだ。
共感と共生が織り成す創発の新世界へ。
男と女が共に歩む世界を願って。





  

Posted by Moist Chocolat at 09:01Comments(0)