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2017年07月08日

玉響(たまゆら)

玉響(たまゆら)という言葉に惹かれ、その深遠を探りたい衝動に駆られました。
古くは万葉集の柿本人麻呂の歌に現れる古語です。

玉響(たまゆらの) 昨日の夕 見しものを 今日の朝に 恋ふべきものか

歌の意味は「昨日の夕方逢ったばかりのに今朝にはもう恋しいなんて、いいはずがない・・。」となります。

本来は「たまかぎる」と詠んでいたのが、いつしか「たまゆらに」と変わったようで、諸説ありますがここでは踏み込みません。その壮大な宇宙観をこの言葉がどれほど大きく表しているのか、自分が感じたように書きます。

玉響の元々の意味は、勾玉(まがたま)同士がゆらぎ触れ合ってたてる微かな音のこと。転じて、「ほんのしばらくの間」「一瞬」、あるいは「かすか」を意味しています。
その言葉の深層に潜むのは時間への感性の違いだと感じました。時間はある種植え付けられた概念であって。現代のデジタル化された刻みに苦しんでいる現状からは解りえない、悠久にゆだねていた人々の命の営みを想起させます。
おそらくその世界観に身をゆだねていた人々は、今よりは幸せであったのではないかと思っています。

勾玉は日本の縄文時代の遺跡から発見されるものが最も古く、勾玉が果たしていた役割が定かではないにしても、古来は通信の道具であったという説があります。今だからこそ、その可能性を考えてみるのは、私たちが次のステップに向かうパラダイムシフトを模索する手がかりとしての意味があるかと思います。

この幽かな響きあいを、現代の超ひも理論に当てはめて考えると「物質の究極の最小単位は粒子ではなく、ひも(弦)の響きあいが音色になっていて、それぞれの要素を構成している」という説明原理に至ります。

現在の世界が置かれている状況は、この響きあう魂の退行であって、ありとある異なった「質」の響きを、お金という同質の「量」に還元するシステムに世界が飲み込まれつつあるという危機感と重なります。
人間の五感、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚は全て接触を契機として発生する感覚です。第六感は五感では知覚不可なこの揺らぎを感じることではないかと考えています。それを端的に表現するのに玉響ほど合致する言葉はないと思いました。

資本もお金も量的に溢れ、響きあう体感も音もない世界は、千態万様の世界の生き物全てを死滅させます。特に人間同士自然との関係においては命の理も知らず、感覚が狂った個が、希薄化した地平でお互いに魂をすり減らしているように思えてなりません。

憎しみを増幅させて殺しあうより、魂を揺らし合う方向を目指したいと思っています。僕の玉響に対する渇望は、もしかしたら前世や、もっともっと前から響き合わせていた太古の記憶が、私たちのDNAに刻み込まれているからなのかもしれません。

それを日本では言霊(ことだま)と呼ぶのかもしれません。玉響(たまゆら)という命ある言葉の一つを殺さずにもう一度口にして響かせていきたいと思います。

玉響(たまゆら)の 昨日の夕(ゆうべ)に 見しものを 今日の朝 (あした)に 恋ふべきものか

通信が発達するはるか以前に、地球(ほし)に育まれ魂を震わせていた人々の記憶の源泉は、ここにあったのだと受け止めています。







Posted by Moist Chocolat at 19:01│Comments(0)
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