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2012年07月09日

ギュスターヴ・ル・ボン 「群集への戦い」

群衆には教育を受けたものも、専門知を所有しているものも含まれる。人は群衆の中に置かれるとき、「暗示を受けやすく物事を軽々しく信じる性質」を付与される。「心象(イマージュ)によって物事を考える」群集(の中にいる人間)は、特に「心象」を喚起する力の強い「標語」によって「暗示」を受け、その暗示が群集の中で「感染」し、その結果、群衆は「衝動」の奴隷となる。これが「集団的衝動のからくり」である。
個人が群衆に加わるやいなや、無学者も学者も、等しく、物事を客観的に眺める観察の能力を失うのである。群衆は多人数であることを要しない。数人の個人が集まれば群衆を構成する。そして、その個人が優秀な学者である場合でも、その専門外の事柄になると、群衆のあらゆる性質を帯びる。各自の有する観察力と批判精神が消え失せてしまうのである。
群衆の叫ぶ世論が「暴風に吹き上げられえて、あちらこちらに散乱し、やがて舞い落ちる木の葉にも似ている」ということ、そしてそうした世論の中に漂う個人の言動は「あたかも風のまにまに吹きまくられる砂の一粒のようなものだ」。
専門人もまた舞い落ちる木の葉であり吹き飛ばされる砂粒である。なぜといって、実験室ならぬ社会という現実のなかで生起する人間現象は、どんなものであれ、専門人の手に負えぬ複雑な相貌を有している。専門人の扱いうるのは現象の一側面に限られるのであり、そしてその側面の意味は、他の諸側面との関わりでのみ、明らかにされる。言い換えれば、物事の全体像を押さえることができなければ、その一側面に関する専門知も、固定観念に凝り固まるということである。専門人は、その肝心の全体像を形成するに際して、実は群衆の集団的錯覚(世論)に頼り切っているのである。


タグ :ル・ボン


Posted by Moist Chocolat at 05:52│Comments(0)
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