てぃーだブログ › オーナーシェフのブログ › 与那国島とティコピア島にみる人口抑制政策

2012年02月01日

与那国島とティコピア島にみる人口抑制政策

与那国島には「トゥングダ」「クブラバリ」と言われる史跡がある。

「トゥングダ」
人減らしのためにおこなわれた場所で、島人を突然招集し決められた時間内にトゥングダに入れなかったものは殺されたという畑の一画です。時間内に集まれない者というのは体の不自由な者や高齢者でした。

「クブラバリ」
クブラバリはクブラフリシの一部であり、全長15メートル、幅約3.5メートルもあるかなり長い断層である。
クブラバリについては悲しい伝説がある。琉球王府は、これまでの貢納制度を改め、15歳以上のすべての男女に賦課することにした。世にいう過酷な人頭税制度であるが、その影響は与那国島まで及び、村ではここクブラバリで残酷なことが行われたという。人口制限のため、村々の妊婦をあつめて岩の割れ目を飛ばせたのである。
妊婦たちは必死の思いで飛んだが、多くは転落死したり、流産したと語り伝えられている。
(与那国町教育委員会の石碑より)


薩摩藩が琉球を支配した後、重い人頭税を課したことで口減らしをせざるを得なかったと一般には教えられている。
それは歴史のひとつの側面ではあるが全体では無い。
私の仮説では、与那国島には古来より人口抑制にまつわる伝統が存在していて、自主的に何らかの政策を行なっていたのではないかというものである。
それが雛形としてもともとあり、薩摩藩の支配と重税によって表層化し、文献に残るに至ったと考えている。
島という限られた空間で生きざるを得なかった人間たちの、歴史の暗部が薩摩藩をスケープゴートにして見え隠れしている。
1637年に制度化され、八重山列島の島々も人頭税に苦しんでいたのであれば同じような行動をとった形跡があるのかもしれない。
その方法が島々に特有のものであったなら、島の伝統文化や掟と深いところで人口抑制は綿々と受け継がれて来たものと捉えるのは間違いだろうか。

与那国島は方言で「どぅなんちま」と言われるがこれは「渡難・どなん」わたるのが難しいという意味が語源だと言われている。
となりの石垣島まで130kmの絶海の孤島。帆船の時代に黒潮海流に逆らい、危険を犯してまで交易が盛んだった可能性は低いと考えるのが妥当。
つまり、外から物資が入らない与那国島は、文化の中に持続可能な社会を実現するためのシステムを内包していたのではないだろうか。
それはおそらく人間同士が定めた残酷なルールであった可能性が高いと私は思う。

人頭税は琉球王府から八重山の在番(頭)からそして在番(頭)から各村への課税基準のことで、重要なことは、租税負担の責任は、個別の百姓が負うのではなく、間切りや村が負っているということである。
課せられた租税を地方役人が責任を持って地域の人々を指揮して租税品を調達して王府に貢納するのである。
人頭税は「王府→在番(頭)→間切(村)」の課税形態であり、決して百姓一人(人頭)に課した租税方法ではないのである。
地方役人が百姓に対して、どのように課税したかについては関知していないのである。
彼らが武力を背景に徴税権を持っていたことが重要なのであり、中抜きして私服を肥やす人間は必ず現れる。
琉球王国時代の先島の生活水準が低かったことは疑いの無い事実だ。
しかしその低さを、収奪=過酷な課税のせいにすることは他の要因を一切無視し
すべて悪い所を他に(薩摩に)押し付けて思考停止しているだけである。
たとえ過酷な課税がないとしても生活水準は高くならなかったであろう。

本当の人間の歴史は穢らしいものなのである。だから真実を見えにくくして隠すのである。



ジャレッド・ダイヤモンド(楡井浩一訳)「文明崩壊」の下巻から概略引用させて戴く。なかなか重い内容である。

ポリネシアのティコピア島は総面積5平方キロ、人口一千人ほどであるが、ほぼ三千年にわたって人間が居住して来た。総面積の大部分は、ココナッツ、パンノキ、サゴヤシ、アーモンド、ヤムイモ、バナナ、タロイモ、キャッサバなどの果樹園が占め、島の殆ど全ての植物は持続可能な食糧として利用されてきた。家畜はニワトリのみで、魚は捕獲は首長の許可が必要で、乱獲が防止されてきた。一方、ティコピア島では、性交中絶による避妊、堕胎、嬰児殺し等に、子供を持たない独身を選んだり、首吊りや入水自殺によって、あるいは他部族を襲って皆殺しにし、人口制限を行なってきた。

ティコピア島は初めに、紀元前900年ごろにポリネシア人の祖先が渡ってくる。最初の一千年で、焼畑で森林は開拓され、魚介類や鳥類は乱獲され、シャコガイやサザエは激減し、カツオドリやクイナなどは絶滅する。そこで、次の一千年は焼畑農業から果樹栽培に移行し、激減した魚介類や鳥類に代わってブタを飼い、摂取たんぱく質の半分を豚肉で補った。紀元1600年ごろには、ブタが作物を荒らし、効率に悪い食糧ということで、そのブタの飼育も放棄され、それでも今に至るまでなんとか自給自足で維持されてきている。ティコピア島民はだれでも島全体に通じており、島民全員を知っている。あらゆる土地の区画は名称が付けられ、父系一族に所有され、各家が島のさまざまな場所に数区画の土地をもっている。

ルワンダと隣国ブルンジでは、この数十年における大量虐殺で少なくとも100万人以上が殺されている。1962年以降、ツチ族とフツ族の抗争で、殺戮の報復が繰り返される。1994年ルワンダ大統領ハビャリマナが専用機もろとも爆殺された以降、フツ族過激派はフツ族敵対分子を一掃し、ツチ族の殲滅に乗り出す。この殲滅戦は、ツチ族が率いるルワンダ愛国戦線(RPF)がルワンダ各地に到着して終結するが、この6週間足らずに、ルワンダ国内に残っていたツチ族の3/4の80万人が殺害されたと推定されている。

この大量虐殺が引き起こされたのは、政治家にあおられたフツ族とツチ族の民族間の憎悪のみからではない。フツ族がフツ族に殺され、そこには人口増加と生存資源の争奪がある。ルワンダ北西部のカナマ・コミューン区域が環境と人口の変化から受けた影響の詳細に関して、ベルギー人経済学者であるカトリーヌ・アードレーとジャン=フィリップ・プラトーが調べている。

人口密度は、1988年が1平方マイル(約2.6平方キロ)当たり1,740人、これが1993年に2,040人に増え、これはバングラデシュを上回る。農地は世帯当たり約280平方メートルと小さく、若者は結婚して別世帯となるには、分割できる農地が無い。20歳代前半で親元で暮らさざるを得ない者は、女性で67%に、男性では100%に増加し、世帯当たりの家族数は5.3人と増え続ける。結果、1日当たり1,600キロカロリー以下しか摂取していない飢餓層は40%だった1990年以降も増え続けた。殆どの人が貧しく空腹で絶望しており、一部の人は他の人よりもっと貧しく空腹で絶望している。この状況は、深刻な衝突を頻発させた。その殆どは土地がらみであり、飢えた者による盗みである。

そうして、1994年の大量虐殺が引き起こされた。犠牲者で最も多かったのは、土地を持たず、農外所得の無かった、特に貧しい人々であった。アードレーとプラトーは記す、この事件は、フツ族の村民どうしの間においてさえ、積年の恨みを晴らす、所有権の再編成をもたらす特異な機会を与えた・・・今日になっても、人口の過剰を一掃し、利用可能な土地資源と頭数の均衡をとるには、戦争が必要なんだといった声を聞くことは珍しくはないと。また、生き残った一人は云う、命を狙われた人々はみな、土地を、ときには乳牛を持っていた。そして、所有者が死亡したあとには、誰かがその土地を、その乳牛を手に入れることとなった。貧しく人口過剰となりつつあった国では、これは無視できない誘引である。

与那国島とティコピア島にみる人口抑制政策
クブラバリ

 http://moistchocolat.tumblr.com/ ←最新記事・フォト・動画など

 Twitter @moistchocolat




Posted by Moist Chocolat at 07:54│Comments(0)
※このブログではブログの持ち主が承認した後、コメントが反映される設定です。
上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。