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2017年07月28日

優等生が戦争を待望する

八重山毎日新聞に載った投稿に、このままいけば日本はまたやるんだろうと、僕は思った。沖縄の戦争の警鐘はかくも儚く、嘆き悲しむのは時が過ぎればただのポーズに没落するのだと、この投稿には如実に表れている。
「しかし私は石垣島に自衛隊を配備することについては反対です」の一文を切り取って「よくぞ言ってくれた、あなたも私たちの仲間入りだね」と、盛り上がる空気感が、既にファシズムの部分を形成してることに気がつかないのだろうか。

僕はこの戦争国家体制を日々国会で整備しながら、立法テロを行っている連中に個として反撃したいと思っている。その立ち位置は希望の日本を見据えているからではなく、圧倒的な力に対して全く無力な個が蟻の一穴を開けるが如く牙を研ぎ澄ましているつもりだ。
その中で僕が幾らかでも覚えた先人の言葉を継ぎ合わせながら、自分の言葉足らずを埋めるのであれば、魯迅は「聖人君子の輩から大いに嫌われる文を書く」という儒教社会に喧嘩を売ってたことを評価するし、レヴィナスはユダヤ人の哲学者で第一次世界大戦も第二次も経験しホロコーストを生き延びた人物で「人間の知性とは戦争の可能性が永続することに気がつくこと」だと述べている。この言葉を借りれば、知の最たるものは戦争の可能性を嗅ぎつけることである。

僕は南西諸島への自衛隊配備に関しては一貫して戦争の凄惨さを繰り返してはならないという立場を崩すつもりはない。オスプレイがうるさいとか、911の後に沖縄に観光客が減ったとか、環境破壊の問題以前に、もっと恐ろしいものが口を開けて待っているということを告げたいだけなのだ。
それが、直感であれ、本能であれ、論理であれ、格言であれ、日々迫り来る戦争に対しては徹底的に争う。
戦争という巨悪の凄惨に対して、言葉の選び方を変えて、人々のマスボリュームの中心に対して共感を得ようなどと姑息な扇動はしたくない。僕は戦地に送られたら、戦場の優等生として振る舞うだろう。暴力と同調圧力の恐怖に抗えずにいられない弱い自分を自覚しているからだ。

この「論壇」に投稿した中学校教員はおそらく、優等生的な中立を装い多くの共感を得る立場を目指しているのかもしれない。こうした個人の資質をあげつらうつもりはないが、こうした人はかつての隣組の監視社会の盟主のような立ち位置に豹変するに違いないだろうと思っている。平時と非常時とで人は、嬉々として大勢を礼賛し寄り添う恐ろしさがある。それが人間の恐ろしさであり、その匂いは特攻礼賛と中立的な物言いにすでに充満している。
文中に現れる伊舎堂中佐は1945年3月26日午前4時、誠第17代飛行隊の隊長として隊員3人と特攻機で石垣島の白保飛行場を出発。同日午前5時50分、慶良間郡西海上の米航空母艦に体当たり攻撃24歳で戦死した。出発前、「指折りつ待ちに待ちたる機ぞきたる 千尋の海に散るぞたのしき」と辞世の句を残している。
戦死後に2階級特進して陸軍中佐となった。白保飛行場からは計31人が突撃死している。

この先の未来はわからないが、ここ先島諸島では戦争の足音が近づいていることは間違いない。
むのたけじは「日本人にないのは希望ではなく、絶望がないこと」だと語った。その通り。戦争体験と切り離された希釈がこれほどまでに歴史の断絶に浸透するようになると、僕の絶望の淵からの抵抗も終わりも近いのかなと思っている。
この投稿から漂っている妖気はファシズムへのいざないの端緒そのものである。
どれだけの人が読み解けるのかわからないが、かすかな抵抗の手がかりでもいい、警鐘を鳴らさざるを得ない。

優等生が戦争を待望する




Posted by Moist Chocolat at 23:20│Comments(0)
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