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2019年04月01日
島々を慰撫する天皇と自衛隊の琉球処分
昨年2018年3月27日から29日まで、明仁天皇の在位最後の沖縄訪問が行われた。その中、沖縄が戦後初めて自衛隊基地を新設させた「与那国駐屯地」が発足した3月28日のちょうど2年目に天皇皇后が与那国島を訪れたのである。
平成という時代は、かつて人々が戦争に狂った昭和初期の惨劇を伝える証言者が息をひきとり、再びファシズムへの回顧が起こり始めた戦間期なのかもしれない。
天皇と沖縄、天皇と軍隊、そのどちらも沖縄にとっては負の遺産がつきまとう。歴史的には1879年3月27日、内務大丞の松田道之が警官160名、熊本鎮台分遣隊400人の武装兵力をもって首里城へ向かい、琉球藩を廃して沖縄県を設置することを一方的に布告した。
140年前に行われた琉球処分が琉球王朝を終わらせ、以後明治政府は天皇の名の下による皇民化を行っていく。
天皇と軍隊の融合は権力と権威が交じり合いながら國體を形成して太平洋戦争の終結まで国民を狂わせた。
沖縄に至っては、昭和天皇が1947年9月にマッカーサー元帥に沖縄を50年以上の長期にわたって占領することを希望する旨の文書が「沖縄メッセージ」として残っている。
3月27日、天皇皇后が沖縄本島を訪れているまさにその時、全国5つの陸自方面隊(北部、東北、東部、中部、西部)を一元的に指揮・監督する「陸上総隊」が新設された。再編によって陸上総隊司令共同部は米陸軍キャンプ座間に置かれ、事実上の指揮命令系統は米軍と一体化してしまい、独立した国の軍隊ではなくなった。
そして「陸上総隊」の直轄部隊として、水力両用作戦の専門部隊である「水陸機動団」も発足させた。このいわゆる日本版海兵隊と呼ばれる部隊は、当面2000人規模で長崎県相浦駐屯地をはじめ九州に置くが、2020年代の前半には沖縄県のキャンプハンセンにも追加で1000人ほど配置する方針を固めている。
これらの部隊が展開するのは南西諸島の島々である。そのために陸上自衛隊が発足以来初めて、外征型の軍として運用可能にするために作り直した大改革であり、米国の手となり足となって動くことができる新生自衛隊の発足に他ならない。この水陸起動団が米軍とともに繰り返し訓練しているのが離島奪還作戦で、その離島とされるのが事前配備部隊の駐屯を計画中の石垣島、もしくはすでに配備が完了した与那国島であり、先日26日に発足した宮古島、奄美大島への陸自ミサイル部隊ということになり、ひと時戦端が開かれてしまえば、軍民混交のまま、かつての沖縄戦の悲劇を繰り返すことになる。
残念なことに、この日の全国の報道は沖縄に寄り添う天皇皇后という賛美報道一色で、沖縄の新聞2紙にしても、その重大さも、「陸上総隊」と「水陸機動団」の運用先である島々の危機意識についても深く取り上げることはなかった。
いわば陸上自衛隊が戦争のできる軍隊に作り変えられた日に、メディアはスピン報道に終始し、その材料を天皇皇后が提供していたと言えるのではないだろうか。
明仁天皇がどこまでそれを意識もしくは自覚しているかは別にして、天皇・皇后がこの重要な局面で与那国島を訪れたことは、中国脅威論を背景にした住民無視の島嶼防衛を、祝賀ムードに包まれた天皇が追認しているように見えるし、メディアはそのように見せるだろうことは予想していたが、まさに機動隊を大量動員した報道管制の元、その通りになってしまった。
また先日26日に陸自ミサイル基地が発足してしまった宮古島、奄美大島の二つの島と現在配備計画が進む石垣島で、不安を抱えている人々や、反対している人々の危機感情を抑え慰撫する役割を、天皇皇后は、軍国化を進める安倍政権によって日程をコントロールされ、結果的に担わされてしまった。
もちろん現行憲法において天皇と自衛隊に直接の結びつきはないが、自民党の憲法改正草案では天皇を国家元首と位置づけ、自衛隊の明記とともに、自衛隊が忠誠を誓う対象として作り変えようという意図が見受けられる。
その背景には、防衛大学校卒業者の任官拒否の増加などからも見られるように、自衛隊の最高指揮官である内閣総理大臣や自民党政権への不信や不満が表面化していて、新しい求心力としての天皇を再び渇望しているように見えてならない。
「自衛隊のなかには、内閣総理大臣のために死ぬというのでは隊員の士気があがらないので、ふたたび天皇を忠誠の対象としようとする動きがあり、天皇と自衛隊との結びつきは、特に一九六〇年代以降、深まっている」(横田耕一氏『憲法と天皇制』)※1 という指摘と、明仁天皇が皇太子時代から「公的行為」として沖縄を訪れている意味を、瀬畑源氏(長野県短大助教)はこう指摘します。
「皇太子の行動の特徴を分析すると、国民統合の周縁にいる人たちを再統合する役割を担う意思を感じる。天皇や指導者に対してわだかまりを持っている人が一定数いる戦没者遺族・戦傷病者や、公害や災害などの被害者を『公的行為』を利用して慰撫している。これらは、天皇即位後の活動が注目されているが、皇太子時代から行っていたものが多い」
「米軍基地問題など、『本土』に対する反発が強く残る沖縄は、国民統合の周縁にあって、『国民』として括られることに反発する人たちが数多く存在する。皇太子の活動は、その沖縄の人たちを『日本国民』として国家の中に統合する役割を、結果的に果たしてきた。皇太子のまなざしは、あくまでも『国民国家』の枠内に『国民』を統合する点が徹底されている」(『平成の天皇制とは何か』岩波書店所収)※2
311以降メディアは加担して、復興に携わる自衛隊と傷ついた人々を見舞う天皇を、それこそ「象徴」の両軸のようにして扱ってきたように見える。
自衛隊の映画やテレビ番組への積極的な参加も、利益を共有するかのような蜜月ぶりが最近よく目立つ。これはかつての戦争で販売部数を大幅に伸ばし巨大化したメディが、戦争協力の総括をなおざりにしたままであるからだろう。
また自衛隊に服務している隊員の中には純粋に国を守りたいという気持ちがあることを否定はしない。ただし、この「国」が何を指すのかは曖昧としていて、守るものは日々敬礼を捧げる日の丸なのか、領土・領海であれ、国民の生命であれ、国民国家の支配層や体制であれ、もしくは天皇を含んだ國體であっても、曖昧であるがゆえに天皇が影響を及ぼす領域は、今なお色濃く残り、いつでもファシズムが膨張する可能性を内在している。
天皇皇后の沖縄訪問の二日目は与那国島では、予定の一週間前から全国からの機動隊車両が6〜7台、機動隊員を中心にして300名が来島し島を闊歩した。これは機動隊員に聞いた人数なので、海上保安庁、皇居警察、私服で行動する人間も含めればもっと大きな人員が動員されていたのだろうと思う。
これら国民の税金で賄われている官吏がわずか人口1700名の周囲26kmの島に膨大な経費をかけて押し寄せてきたのは、島民を厳重に管理して、天皇皇后を諸手を挙げて歓迎する巨大なフィクションを作り上げるため、としか形容できない状況であった。
来島の準備のために島内では小学生がプランターに花を植えて、天皇皇后の巡行する道は入念に掃き清められて、ある種見慣れた風景でもあった薄汚れた廃船などの巨大なゴミは、重機の圧倒的なパワーで一気に浄化された。
島の人々の会話から聞いたのが「天皇陛下が来るから美容院で髪を切ってきた」とか「失礼がないように一番上等な服を洗った」とか、天皇皇后の迎え方に国民的なコンセンサスやマニュアルはないんだろうと思うが、一様に不浄を排する感覚が共有されていたのには驚いた。
ほとんど全ての与那国島の島民は、選ばれた人間でなければ、沿道で配られた日の丸の小旗を振って、特別仕様の車の窓から手を振る天皇皇后とすれ違う一瞬に、「私と天皇の目があったとか」「皇后が私のお辞儀に反応してくれたとか」たわいのない感想を甲高い声で話し合う様を目の当たりにして、下からのファシズムはいつでも準備可能になってると、めまいがして、国境の小さな島ですら中央に飲み込まれていく様を認めざるをえなかった。
平成の中で今年の3月ほど、沖縄の南西諸島の島々で、日の丸が振られ、天皇を言祝ぐ言葉が溢れた時もないでしょう。
また「言挙げせず 和の心」を笑顔で体現するあのお二人こそ、天皇制に人権を奪われたままであり、行動はするが言論の自由がない特殊な檻の中にいることも忘れてはならないと思う。
最近なぜかよく目にする、キング牧師の言葉で締めようと思います。
多分それは、私がとても小さな島に生きていて、天皇のことなどあらためて書くと、ますます厄介なことになることは間違いないでしょうが、言うべきことは言う、そこからは逃げたくないと思うからです。
「最大の悲劇は、悪人の暴力ではなく、善人の沈黙である。
沈黙は、暴力の陰に隠れた同罪者である。」マーティン・ルーサー・キング・ジュニア
※1 明仁天皇の沖縄・与那国訪問と“日本版海兵隊”創設(アリの一言)
※2 明仁天皇の「沖縄・与那国訪問」と福沢諭吉(アリの一言)
平成という時代は、かつて人々が戦争に狂った昭和初期の惨劇を伝える証言者が息をひきとり、再びファシズムへの回顧が起こり始めた戦間期なのかもしれない。
天皇と沖縄、天皇と軍隊、そのどちらも沖縄にとっては負の遺産がつきまとう。歴史的には1879年3月27日、内務大丞の松田道之が警官160名、熊本鎮台分遣隊400人の武装兵力をもって首里城へ向かい、琉球藩を廃して沖縄県を設置することを一方的に布告した。
140年前に行われた琉球処分が琉球王朝を終わらせ、以後明治政府は天皇の名の下による皇民化を行っていく。
天皇と軍隊の融合は権力と権威が交じり合いながら國體を形成して太平洋戦争の終結まで国民を狂わせた。
沖縄に至っては、昭和天皇が1947年9月にマッカーサー元帥に沖縄を50年以上の長期にわたって占領することを希望する旨の文書が「沖縄メッセージ」として残っている。
3月27日、天皇皇后が沖縄本島を訪れているまさにその時、全国5つの陸自方面隊(北部、東北、東部、中部、西部)を一元的に指揮・監督する「陸上総隊」が新設された。再編によって陸上総隊司令共同部は米陸軍キャンプ座間に置かれ、事実上の指揮命令系統は米軍と一体化してしまい、独立した国の軍隊ではなくなった。
そして「陸上総隊」の直轄部隊として、水力両用作戦の専門部隊である「水陸機動団」も発足させた。このいわゆる日本版海兵隊と呼ばれる部隊は、当面2000人規模で長崎県相浦駐屯地をはじめ九州に置くが、2020年代の前半には沖縄県のキャンプハンセンにも追加で1000人ほど配置する方針を固めている。
これらの部隊が展開するのは南西諸島の島々である。そのために陸上自衛隊が発足以来初めて、外征型の軍として運用可能にするために作り直した大改革であり、米国の手となり足となって動くことができる新生自衛隊の発足に他ならない。この水陸起動団が米軍とともに繰り返し訓練しているのが離島奪還作戦で、その離島とされるのが事前配備部隊の駐屯を計画中の石垣島、もしくはすでに配備が完了した与那国島であり、先日26日に発足した宮古島、奄美大島への陸自ミサイル部隊ということになり、ひと時戦端が開かれてしまえば、軍民混交のまま、かつての沖縄戦の悲劇を繰り返すことになる。
残念なことに、この日の全国の報道は沖縄に寄り添う天皇皇后という賛美報道一色で、沖縄の新聞2紙にしても、その重大さも、「陸上総隊」と「水陸機動団」の運用先である島々の危機意識についても深く取り上げることはなかった。
いわば陸上自衛隊が戦争のできる軍隊に作り変えられた日に、メディアはスピン報道に終始し、その材料を天皇皇后が提供していたと言えるのではないだろうか。
明仁天皇がどこまでそれを意識もしくは自覚しているかは別にして、天皇・皇后がこの重要な局面で与那国島を訪れたことは、中国脅威論を背景にした住民無視の島嶼防衛を、祝賀ムードに包まれた天皇が追認しているように見えるし、メディアはそのように見せるだろうことは予想していたが、まさに機動隊を大量動員した報道管制の元、その通りになってしまった。
また先日26日に陸自ミサイル基地が発足してしまった宮古島、奄美大島の二つの島と現在配備計画が進む石垣島で、不安を抱えている人々や、反対している人々の危機感情を抑え慰撫する役割を、天皇皇后は、軍国化を進める安倍政権によって日程をコントロールされ、結果的に担わされてしまった。
もちろん現行憲法において天皇と自衛隊に直接の結びつきはないが、自民党の憲法改正草案では天皇を国家元首と位置づけ、自衛隊の明記とともに、自衛隊が忠誠を誓う対象として作り変えようという意図が見受けられる。
その背景には、防衛大学校卒業者の任官拒否の増加などからも見られるように、自衛隊の最高指揮官である内閣総理大臣や自民党政権への不信や不満が表面化していて、新しい求心力としての天皇を再び渇望しているように見えてならない。
「自衛隊のなかには、内閣総理大臣のために死ぬというのでは隊員の士気があがらないので、ふたたび天皇を忠誠の対象としようとする動きがあり、天皇と自衛隊との結びつきは、特に一九六〇年代以降、深まっている」(横田耕一氏『憲法と天皇制』)※1 という指摘と、明仁天皇が皇太子時代から「公的行為」として沖縄を訪れている意味を、瀬畑源氏(長野県短大助教)はこう指摘します。
「皇太子の行動の特徴を分析すると、国民統合の周縁にいる人たちを再統合する役割を担う意思を感じる。天皇や指導者に対してわだかまりを持っている人が一定数いる戦没者遺族・戦傷病者や、公害や災害などの被害者を『公的行為』を利用して慰撫している。これらは、天皇即位後の活動が注目されているが、皇太子時代から行っていたものが多い」
「米軍基地問題など、『本土』に対する反発が強く残る沖縄は、国民統合の周縁にあって、『国民』として括られることに反発する人たちが数多く存在する。皇太子の活動は、その沖縄の人たちを『日本国民』として国家の中に統合する役割を、結果的に果たしてきた。皇太子のまなざしは、あくまでも『国民国家』の枠内に『国民』を統合する点が徹底されている」(『平成の天皇制とは何か』岩波書店所収)※2
311以降メディアは加担して、復興に携わる自衛隊と傷ついた人々を見舞う天皇を、それこそ「象徴」の両軸のようにして扱ってきたように見える。
自衛隊の映画やテレビ番組への積極的な参加も、利益を共有するかのような蜜月ぶりが最近よく目立つ。これはかつての戦争で販売部数を大幅に伸ばし巨大化したメディが、戦争協力の総括をなおざりにしたままであるからだろう。
また自衛隊に服務している隊員の中には純粋に国を守りたいという気持ちがあることを否定はしない。ただし、この「国」が何を指すのかは曖昧としていて、守るものは日々敬礼を捧げる日の丸なのか、領土・領海であれ、国民の生命であれ、国民国家の支配層や体制であれ、もしくは天皇を含んだ國體であっても、曖昧であるがゆえに天皇が影響を及ぼす領域は、今なお色濃く残り、いつでもファシズムが膨張する可能性を内在している。
天皇皇后の沖縄訪問の二日目は与那国島では、予定の一週間前から全国からの機動隊車両が6〜7台、機動隊員を中心にして300名が来島し島を闊歩した。これは機動隊員に聞いた人数なので、海上保安庁、皇居警察、私服で行動する人間も含めればもっと大きな人員が動員されていたのだろうと思う。
これら国民の税金で賄われている官吏がわずか人口1700名の周囲26kmの島に膨大な経費をかけて押し寄せてきたのは、島民を厳重に管理して、天皇皇后を諸手を挙げて歓迎する巨大なフィクションを作り上げるため、としか形容できない状況であった。
来島の準備のために島内では小学生がプランターに花を植えて、天皇皇后の巡行する道は入念に掃き清められて、ある種見慣れた風景でもあった薄汚れた廃船などの巨大なゴミは、重機の圧倒的なパワーで一気に浄化された。
島の人々の会話から聞いたのが「天皇陛下が来るから美容院で髪を切ってきた」とか「失礼がないように一番上等な服を洗った」とか、天皇皇后の迎え方に国民的なコンセンサスやマニュアルはないんだろうと思うが、一様に不浄を排する感覚が共有されていたのには驚いた。
ほとんど全ての与那国島の島民は、選ばれた人間でなければ、沿道で配られた日の丸の小旗を振って、特別仕様の車の窓から手を振る天皇皇后とすれ違う一瞬に、「私と天皇の目があったとか」「皇后が私のお辞儀に反応してくれたとか」たわいのない感想を甲高い声で話し合う様を目の当たりにして、下からのファシズムはいつでも準備可能になってると、めまいがして、国境の小さな島ですら中央に飲み込まれていく様を認めざるをえなかった。
平成の中で今年の3月ほど、沖縄の南西諸島の島々で、日の丸が振られ、天皇を言祝ぐ言葉が溢れた時もないでしょう。
また「言挙げせず 和の心」を笑顔で体現するあのお二人こそ、天皇制に人権を奪われたままであり、行動はするが言論の自由がない特殊な檻の中にいることも忘れてはならないと思う。
最近なぜかよく目にする、キング牧師の言葉で締めようと思います。
多分それは、私がとても小さな島に生きていて、天皇のことなどあらためて書くと、ますます厄介なことになることは間違いないでしょうが、言うべきことは言う、そこからは逃げたくないと思うからです。
「最大の悲劇は、悪人の暴力ではなく、善人の沈黙である。
沈黙は、暴力の陰に隠れた同罪者である。」マーティン・ルーサー・キング・ジュニア
※1 明仁天皇の沖縄・与那国訪問と“日本版海兵隊”創設(アリの一言)
※2 明仁天皇の「沖縄・与那国訪問」と福沢諭吉(アリの一言)
Posted by Moist Chocolat at 14:34│Comments(0)
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