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2017年07月14日
蓮舫氏へ向けられるレイシズムの視線は戦争国家への準備である
民進党の蓮舫代表は11日の党執行役員会で、台湾籍と日本国籍の「二重国籍問題」をめぐり、日本国籍の選択宣言をしたことを証明するため、近く戸籍謄本を公開する方針を明らかにした、という。確認しておきたいことは、蓮舫氏の場合は、日本が中国との関係から台湾(中華民国)を国家として承認していないということであって、台湾籍は存在していないというのが日本政府の見解である。 従って「国籍を放棄しろ」と言われ、国籍放棄の手続きをとろうとすると「受理できない」と突き返される矛盾のループがこの国にある以上、蓮舫氏には現在のところ日本国籍しかないというのが客観的な事実である。
もし二重国籍という問題を真剣に論じたいのであれば、それは最終的に日本と中国と台湾の外交問題に発展するということである。それを敢えて議題に乗せて、重国籍者の人権問題を語ろうという機運から発したものであれば、それは様々なミックスルーツを持ち日本に住んでいる人々にとっては、待ち望んだ朗報になるのは間違いない。そもそも重国籍者が人々の信頼を得て国政に上がるのであれば、それは国際色豊かな民主的なプロセスであって、多角的な視野を持った人材は日本と世界の架け橋になる可能性を多分に秘めている。そして蓮舫氏が戸籍謄本を公開するということは、他の重国籍者に対して同様の踏み絵を迫る悪しき前例になり、それら人々の生存や人権を脅かす結果になることを想像しなくてはならない。そのことは蓮舫氏は最もよくわかり苦しんだ一人であろうと思う。蓮舫氏に向けられているのは、メディアと権力が作り出したレイシズムの視線を通して国民が視ているのである。
しかし、議論の全体を眺めるとそうなってはいない。 東京都議選の結果を受けた民進党が敗退の原因を二重国籍問題にすり替えて語るのは、民進党に巣喰う日本会議系の隠れ補完勢力がまたも動き出したということではないだろうか。また、結果的には日本の国益を損ねて分断統治するジャパンハンドラーの手先が、死に体の自民党を利する衛星野党として、このタイミングで暗躍している構図も見て取れる。
これは多くの日本人が理解しなくてはならないことだが、無自覚にこの流れに身を委ねてしまうのならば、それはレイシストが作り出す、蓮舫氏への私刑(リンチ)の末席に自らの名を連ねるということなのである。それを最も喜んでいるのは、安倍晋三を筆頭に辺境な愛国心を煽り戦争へとひた走る、最も唾棄すべき集団を利することになるのを忘れてはならない。
「すべての戦争は差別から始まる」この言葉を根本に据えて考えなければならないと思っている。今年3月、道徳の教科書表記が書き換えられた。「我が国や郷土の文化と生活に親しみ、愛着をもつ」という点が足らないと指摘を受けて、「パン屋を和菓子屋に、アスレチックの遊具で遊ぶ公園を和楽器屋に」と教科書会社が修正したところ、検定をパスしたという報道があった。
その時に思い出さざるを得なかったエピソードがある。『戦時下のドイツで、ナチスが政権を取った年のある日、ドイツ人の経営する商店の店先に「ドイツ人の商店」という札がさりげなく張られたとき、一般人は何も感じなかった。またしばらくしたある日、ユダヤ人の店先に黄色い星のマーク(ユダヤ人であることを示す)がさり気なく張られた時も、それはそれだけのことで、それがまさか何年も先の、あのユダヤ人ガス室虐殺につながるなどと考えた普通人は一人もいなかったろう』
この歴史の相似形の反復こそが、心層の深くにある生体の本能が警鐘を鳴らしている。そして今回の蓮舫氏に対する内外からの突き上げは、まさにこの文脈に沿って行われた時代の空気である。現在の事象を過去に照らし合わせて読むことは、戦争の歴史を読み解くことでもあり、戦時や非常事態でジェノサイドやポグロム、関東大震災で朝鮮人が虐殺された歴史がある。それらがマイノリティーの魂を怖気さす恐怖であり危機感だということに、大多数の側が無知であることが無自覚の暴力の源泉になっていることを忘れてはならないのだ。
脅威に駆り立てられた人々が自然発生的に増幅させる不安は、同調圧力を背景に、レイシズムからファシズムへと昇華して戦争の凄惨へと結実する。このプロセスはかつて日本が歩んできた道であり、歴史の深層から再び沸き上がりつつある。 この国には透明な残忍さを美しい言葉で語りながら、下から蠢めく正体不明の鵺が常に潜んでいる。その指先で、舌先でくすぐられ、生ぬるく反応してしまう生理的な情動に、全身で拒否しなくてはならない。その鵺の正体は日本版ファシズムであり、それを醸し出す情動的な基盤に重ねなければ全体が見えない。日本人とは何か、という定義が喧しく語られるとき、そこには既に小さな声の圧殺が始まっているのである。
「日本人」は既に自らがファシズムの一部であることを理解できない、それこそが「日本人」なのである。メディアは語らないだろうが、狂喜乱舞する人の群れを見よ、戦争は既に始まっている。蓮舫氏に戸籍公開を迫ることは、差別を政治利用した「日本人」の集団動員であり、人倫を駆逐するファシズムの別名に他ならない。 そして、自分自身が狂気の一部になってはいないか、誰しもが内面に問わなくてはならない「私たちは正気なのか?」と。
この国のファシズムは麻酔をかけるように「日本人」たれと、透明な残忍性を帯びて侵食してくる。踏み絵は内面の自殺であり、魂の死亡証明書である。それが歴史の教訓ではなかったのだろうか。
ファシズムの語源は葦をひとくくりにして束ねることから来ているようだ。括弧に括られた「日本人」は束ねられてしまった人々の総称を指す記号のことである。この「日本人」から括弧を外して語りうる日本人ならなくては、「日本人」が記号化した存在まで凋落することは、避けられないであろうと危惧している。
写真は山下清 作
◆放浪へと導いた戦争◆観兵式 貼絵 1937年
角川文庫『完全版1★9★3★7(イクミナ)』辺見庸著
この本の装丁にもなった作品から引用させていただきました。
もし二重国籍という問題を真剣に論じたいのであれば、それは最終的に日本と中国と台湾の外交問題に発展するということである。それを敢えて議題に乗せて、重国籍者の人権問題を語ろうという機運から発したものであれば、それは様々なミックスルーツを持ち日本に住んでいる人々にとっては、待ち望んだ朗報になるのは間違いない。そもそも重国籍者が人々の信頼を得て国政に上がるのであれば、それは国際色豊かな民主的なプロセスであって、多角的な視野を持った人材は日本と世界の架け橋になる可能性を多分に秘めている。そして蓮舫氏が戸籍謄本を公開するということは、他の重国籍者に対して同様の踏み絵を迫る悪しき前例になり、それら人々の生存や人権を脅かす結果になることを想像しなくてはならない。そのことは蓮舫氏は最もよくわかり苦しんだ一人であろうと思う。蓮舫氏に向けられているのは、メディアと権力が作り出したレイシズムの視線を通して国民が視ているのである。
しかし、議論の全体を眺めるとそうなってはいない。 東京都議選の結果を受けた民進党が敗退の原因を二重国籍問題にすり替えて語るのは、民進党に巣喰う日本会議系の隠れ補完勢力がまたも動き出したということではないだろうか。また、結果的には日本の国益を損ねて分断統治するジャパンハンドラーの手先が、死に体の自民党を利する衛星野党として、このタイミングで暗躍している構図も見て取れる。
これは多くの日本人が理解しなくてはならないことだが、無自覚にこの流れに身を委ねてしまうのならば、それはレイシストが作り出す、蓮舫氏への私刑(リンチ)の末席に自らの名を連ねるということなのである。それを最も喜んでいるのは、安倍晋三を筆頭に辺境な愛国心を煽り戦争へとひた走る、最も唾棄すべき集団を利することになるのを忘れてはならない。
「すべての戦争は差別から始まる」この言葉を根本に据えて考えなければならないと思っている。今年3月、道徳の教科書表記が書き換えられた。「我が国や郷土の文化と生活に親しみ、愛着をもつ」という点が足らないと指摘を受けて、「パン屋を和菓子屋に、アスレチックの遊具で遊ぶ公園を和楽器屋に」と教科書会社が修正したところ、検定をパスしたという報道があった。
その時に思い出さざるを得なかったエピソードがある。『戦時下のドイツで、ナチスが政権を取った年のある日、ドイツ人の経営する商店の店先に「ドイツ人の商店」という札がさりげなく張られたとき、一般人は何も感じなかった。またしばらくしたある日、ユダヤ人の店先に黄色い星のマーク(ユダヤ人であることを示す)がさり気なく張られた時も、それはそれだけのことで、それがまさか何年も先の、あのユダヤ人ガス室虐殺につながるなどと考えた普通人は一人もいなかったろう』
この歴史の相似形の反復こそが、心層の深くにある生体の本能が警鐘を鳴らしている。そして今回の蓮舫氏に対する内外からの突き上げは、まさにこの文脈に沿って行われた時代の空気である。現在の事象を過去に照らし合わせて読むことは、戦争の歴史を読み解くことでもあり、戦時や非常事態でジェノサイドやポグロム、関東大震災で朝鮮人が虐殺された歴史がある。それらがマイノリティーの魂を怖気さす恐怖であり危機感だということに、大多数の側が無知であることが無自覚の暴力の源泉になっていることを忘れてはならないのだ。
脅威に駆り立てられた人々が自然発生的に増幅させる不安は、同調圧力を背景に、レイシズムからファシズムへと昇華して戦争の凄惨へと結実する。このプロセスはかつて日本が歩んできた道であり、歴史の深層から再び沸き上がりつつある。 この国には透明な残忍さを美しい言葉で語りながら、下から蠢めく正体不明の鵺が常に潜んでいる。その指先で、舌先でくすぐられ、生ぬるく反応してしまう生理的な情動に、全身で拒否しなくてはならない。その鵺の正体は日本版ファシズムであり、それを醸し出す情動的な基盤に重ねなければ全体が見えない。日本人とは何か、という定義が喧しく語られるとき、そこには既に小さな声の圧殺が始まっているのである。
「日本人」は既に自らがファシズムの一部であることを理解できない、それこそが「日本人」なのである。メディアは語らないだろうが、狂喜乱舞する人の群れを見よ、戦争は既に始まっている。蓮舫氏に戸籍公開を迫ることは、差別を政治利用した「日本人」の集団動員であり、人倫を駆逐するファシズムの別名に他ならない。 そして、自分自身が狂気の一部になってはいないか、誰しもが内面に問わなくてはならない「私たちは正気なのか?」と。
この国のファシズムは麻酔をかけるように「日本人」たれと、透明な残忍性を帯びて侵食してくる。踏み絵は内面の自殺であり、魂の死亡証明書である。それが歴史の教訓ではなかったのだろうか。
ファシズムの語源は葦をひとくくりにして束ねることから来ているようだ。括弧に括られた「日本人」は束ねられてしまった人々の総称を指す記号のことである。この「日本人」から括弧を外して語りうる日本人ならなくては、「日本人」が記号化した存在まで凋落することは、避けられないであろうと危惧している。
写真は山下清 作
◆放浪へと導いた戦争◆観兵式 貼絵 1937年
角川文庫『完全版1★9★3★7(イクミナ)』辺見庸著
この本の装丁にもなった作品から引用させていただきました。
Posted by Moist Chocolat at 16:14│Comments(0)
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