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2017年06月23日

八重山の戦争マラリアと隠された住民虐殺計画

沖縄では、組織的な戦闘が終結した6月23日を「沖縄慰霊の日」と定めている。壮絶な地上戦を体験した沖縄本島の他に、八重山諸島でも、この日には特別な意味がある。

「潮平くんねえ、君は僕に殺されていたかもしれないよ」当時鉄血勤皇隊に召集された経験を持つ潮平正道さんは、兄の同級生にそう言われた。石垣島では、敵軍が上陸して来た場合は住民虐殺を計画していたという、貴重な証言である。

沖縄の西南端に位置する八重山諸島でも、戦争の惨禍がある。それが「戦争マラリア」である。

八重山諸島の中心にある石垣島では、およそ9000名の陸軍・海軍が終戦の前年に住民を陣地構築に駆り出し、地上戦に備えた布陣を敷いた。
それはサイパン、グアム、アッツ、硫黄島などと同様に「玉砕の島」として想定されていたのだ。

軍民混交の統制下に置かれた島では、軍命により、石垣島・西表島の山中への集団疎開を強行し、島々の住民はマラリアの有病地帯に追い込まれた。
その結果、当時の人口31,701名のうち3,647名が命を落とした。全体の罹患者数は16,884名で、実に人口の半数を超える。

「軍隊なんて、秘密を守るということが最優先ですよ。国民の命よりも、命を犠牲にしてでも軍隊の秘密を守ることが第一義ですよ。秘密が漏れちゃいけないから、軍の背後に、有病地帯とわかっていながら避難小屋を作らせていた。」と潮平さんは語る。

つまり、進駐して来た日本軍は、沖縄の離島住民を守ると言っておきながらスパイ視し、死んでも構わないと考えていたのではないと考えていたのだろう。
撤退した後の将校の家の押入れからは、マラリアの特効薬「キニーネ」が入った箱が大量に出て来たという。

「その証拠に、僕の兄の同級生ですけども、石垣島での軍隊生活を経験していたわけですが。」
「潮平くん、どこに避難していたの?」と聞かれ。
「白水に避難していた」と言ったら。
「じゃあおまえ、僕に殺されていたかもしれんな。」
「敵が上陸して、捕虜になって、情報がばれるおそれがあるから、住民を虐殺しなさいと、(銃の)弾が配られていたと言うんですよ」

それは戦闘時の混乱の中で悲劇が起きたのではなく、軍隊の駐留によって起きうる本質を曝け出している。
潮平さんの証言は「戦争マラリア」そのものが、あらかじめ住民虐殺を前提としたものであり、米軍侵攻後は避難小屋に集めた住民を虐殺する計画に繋がる、全体として構築された可能性を示唆している。
そこに貫かれているのは軍隊の本質である。

「沖縄慰霊の日」に八重山の戦争も合わせて語り継がなくてはならない。
石垣島では陸上自衛隊の配備計画が進もうとしている。
果たしてあれから、軍隊の本質は変わったのであろうか、またそれを日本全体で考えたことがあるだろうかと、問わざるを得ない。
中国脅威論を背景にした配備など、そもそも侵略した加害者の立場で語るところに議論が抜け落ちている証左である。
現在に現れた陸自配備問題は、同じ構造で繰り返されてはいないだろうか。
「沖縄慰霊の日」日本と共に過去を振り返って考える必要を感じる。




疎開場所があった白水を潮平さんに案内していただいた。住民を監視する小屋の近くには慰安所らしき場所もあったという。


井戸の跡


日本軍が調理台にしていた石。今では木が根を張って割れていた。


戦争マラリアの碑。このデザインと設計も潮平さんが手掛けたという。






ドキュメンタリー映画「標的の島」(三上智恵監督)での証言




Posted by Moist Chocolat at 12:24│Comments(0)
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