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2017年04月12日

与那国「イソバの会」稲川さんの一周忌

「与那国島の明るい未来を願うイソバの会」の共同代表であった稲川宏二さんが不慮の事故で亡くなって一年が経ちます。新聞報道に載り、広く伝えられたのが昨年4月12日のことでした。
あれから1年の節目を迎えて、これまで僕が言いにくかったこともあり、それでも書き残しておきたいと思う。

沖縄タイムスの新聞報道が伝えるところによると、与那国島の南にあるカタブル浜で4月10日、貝採り中に行方不明になっていた稲川さん(49)は11日午前7時半ごろ、海中に沈んでいる状態で発見され、同8時9分に搬送先の診療所で死亡が確認された。稲川さんは与那国町への自衛隊配備計画に反対する「与那国島の明るい未来を願うイソバの会」の共同代表を務めていた。
稲川さんは10日午後1時半ごろ、友人男性と2人で貝採りに出掛け、友人が海から上がった後、行方が分からなくなった。沖縄県は11日午前0時に知事名で与那国沿岸監視隊長に行方不明者捜索の災害派遣を要請。海保、自衛隊、民間ダイバーらが捜索に当たっていた。石垣海上保安部によると、捜索に当たっていた地元ダイバーが陸から約1・8キロ、水深約10メートルの海底で発見した。という。

僕が行方不明の報を受けたのは旅路の途中、隣の石垣島でだった。3月28日の与那国島への陸自駐屯地の発足の式典に参加し、現場でまざまざと記憶に留めるという経験をへて、この島の未来を想うといたたまれなくなったというのが、与那国島を離れた正直な気持ちだった。訳もなく島から弾き出されるようにして、その後ふらふらと3週間にわたり、同じ基地問題を抱える石垣島・宮古島・韓国の済州島へと向かうことになるのだが、ちょっと長旅に行ってきますと、言葉短く稲川さんに伝えたはずだった。その時彼がどのような表情で、どのような言葉で私を送り出してくれたのかは、いまもって記憶が曖昧なままだが、他の島との連携を切に願っていたのは、この小さい島では数少ない二人の共通意識だったかもしれない。これは与那国島の問題だけではないと、だからこそ多くは言わなくても阿吽で分かり合えただけに、その印象が記憶から消えてしまっているのだと思う。
別れの予感は微塵もなくても、突如現実は悲しい形で訪れる。語弊を恐れずに言えば車の両輪のように助け合っていた仲間の突然の近すぎる死は、その意味を生者の立場から問うことがあまりにも難しい。この一年は喪失感と共に、これまで支え合っていたのだという実感を、時間という文脈の中でゆっくりと消化しながら進むことしかできなかった。しかし、稲川さんの不在が生きている存在に語りかけるという働きかけは、私の中で生の一部として今もなお生きているのだと思っている。

稲川さんの訃報を受けて、当時このように書いた。
『島の将来を考えて、対立の矢面に立ち続けた彼の重圧は計り知れない。葛藤の渦に巻き込まれながらも、笑顔と理性で信念を貫く姿に、教えられることが多かった。
全国から飛んでくる誹謗中傷、小さな島社会でかかる圧力と恫喝、恐怖と隣り合わせの生活。彼の死がたとえ事故であっても、彼を死に至らしめたのは、私たちひとりひとりと、その社会ではないのかと、自責の念に耐えない。
ひとりの死をもってしても終わらない分断を与那国島は抱え、南西諸島全域への自衛隊配備は進められていく。ひとりの人生が投げかけた問いを私は考えている。』と。
自責どころか、稲川さんを死に至らしめたのはひとりひとりではないのかと、叫んでいた。
この言葉はやるせない真実を含みながらも、同時に内面に突き刺さる自傷であり、外部に向かっては関係を拒絶するバリアでもあったのだと思う。ようやくこの呪縛から僕は少し解けてきたのかもしれない。

先日10日の一周忌に、稲川さんの奥さんとようやく会って話すことができた。「できた」というのは自分の中で気持ちの整理がつかなかったからである。僕がこれまで気にかけて遠ざけたいと思っていた実相は、この与那国島における自衛隊基地建設反対運動が稲川さんを殺し、同じ殺し殺されの延長線上に立っている私を、遺族である奥さんがどう考えているかわからず、怖かったかったからだ。
世間話をする中で、僕は思い切って「大変言いにくいことなのですが、実は自衛隊基地建設反対の立場から、僕はいまだにあっちこちを飛び回っているのです」と告げた。そしたら満面の笑顔で「そんなの知ってるわよ〜。旦那もきっと後を継いでくれて喜んでくれてるはずよ〜」と笑って返してくれました。
この一年自分に刺さっていた棘がなんだったのか、単純に言えばただの杞憂が悲劇の殻で覆われていたにすぎませんでした。
この小さな与那国島で社会問題を語ることの厳しさを、身近で支えていたのはまさにこの人だったんだと、わだかまりが解けていくようでした。

一年経って少しだけ死の意味と自分の行動が重なって見えてきました。光の背後には必ず影が生まれ、先人が光に向かって歩いた後には影が長く伸びている。同じ道の上を歩んで行っても、そこにはゆらゆらと進むべき道標を影法師が指し示してくれているのだろうと感じています。生者と死者の河岸は明白な線ではなくて常に過去と未来とが交わる創造的な世界なのかもしれません。現在、生かされて在る命に対して、あの世から学びを受け取っていることを感謝し生かして行きたいと思います。

「戦わないで仲良くしよう」と日本最西端の島から稲川さんは問いかけています。










Posted by Moist Chocolat at 23:31│Comments(0)
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