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2011年10月30日

僕はなぜ与那国島に住んでいるのか 1 「世界一周編」

僕が与那国島に住むことになった理由、料理を始めることになったきっかけについてよく質問されます。

これからの話はRistoranteTETSUとロールケーキ専門店「Moist Roll Yonaguni」のオーナの僕がこれまでどんな気持ちで料理と向き合っていたのか、縁あってこのページまでたどり着いてくれたみなさんに向けて書く事にします。
長くなったらすみませんが、どうぞ最後までおつきあいください。


「世界一周編」


高校3年生の冬、僕はどこからか新聞奨学生制度というものを見つけ出した。
自分で学費を稼ぎつつ、親元を離れ好き勝手に生活ができる、なんて素晴らしい制度だろうと心から思った。
これは是非とも実行にうつさなければいけない、18歳の青年はそれなりに考えて即応募、そしてたいした障害もなく採用されたのです。
嬉々として実家仙台を離れ、東京で新生活を始めた頃、若かったあの頃、政治や歴史や経済、世界の仕組みも、本当に何もわからなかった。
あの頃より僕は、たくさんの知識を身に付けていますが、知識や知恵で固めた自分が小さく見えるほど、何も怖くはありませんでした。

朝の3時に起き出し新聞を配る生活は、それなりに大変でしたが、その日を自分で生きている実感があった。
仕事でいっぱいいっぱいになり、学校はサボりがちでしたが、よく考えればそれは今に始まったことではなく、小学校のときからちょいちょい欠席して、昼間から家で寝てたりすることに甘い背徳感をおぼえている少年だった。
おぼろげながらも、罪悪感や背徳感の先に広がっている広大な世界を意識していたのかもしれません。
僕は親の言うこともあまり聞かなかったし、両親も強制的に何かを押し付けてくることはなかったので、家庭はいたって円満、きれいな住み分けができていたのだと思います。
多少学校をサボる以外はいたって品行方正な学生で、友達は不良とよばれる人間が多く、その友人たちに親しみを感じていました。
そもそも、無知ゆえに、将来に対するビジョンや保証などということはそもそも考えておらず、眼中になかった。

東京での新しい生活が始まると、親や世間がどうこうなどと考える暇も無く、恋愛も貧乏も失敗も二日酔いも思えば夢中で経験していました。
今になって思うのですが、若者を強制することはできません、せいぜい将来の不安で脅すのが関の山です。
家畜のように飼い慣らそうという力にたいして、若者はしなやかに、そして健全に反抗するため立ち上がるように出来ているのです。
バブルは既にはじけ、オウム事件が日本を揺るがしていたころ。
先輩たちはバブル期にいかにたくさんの金を稼いだか、遠い目をしながら思い出話をするそんな世相でした。
実態のない幻想の恩恵を受けることなく、日本社会に放り出された、僕らは最初の世代だったのかもしれません。




幻想の余韻が残るその後、社会人として仕事をこなし、生きなければならない生活に入ってみると、自分のための時間もお金も容易に稼ぐことのできない世の中であることに、遅まきながら気づき始めた。
この自分を取り巻く社会は何かおかしいかもしれない、という疑問をふつふつと抱えながら、何年も東京で過ごしていたのです。
当時、商品をトラックにのせて運ぶ物流の仕事をしており、将来シェフ・パティシエの仕事をするなどとは思いもしませんでした。
ビジョンは無かった、それでも、個人個人が社会や政治に目を向けなくても、将来のことなどなんとかなるだろう。
そう思っていたら日本はとんでもない国になってきていた、若者総奴隷時代、アメリカの属国。
無知に支えられたごくごく日本的な冗談、人は夢見る存在であることを体感できる不思議な国、そんな空気に支配されていたある意味幸せな時代であったのだと思っています。

職を変え、実家のある仙台で生活を始めてもなお、この疑問は再び頭をもたげるようになり、ひたすらに時間をお金に変えるようなカツカツの仕事で貯蓄など出来そうにない。
このまま社会の歯車にいいように絡め取られてしまったら、一体僕はなんのために生まれてきたのだろうか。
労働に明け暮れる日々、将来に対する設計なるものを、いい加減考え始めてきたのが20代の中頃のことでした
日本という国全体が、僕と同じように疑問を抱えていたあの頃から、さらに悪く、今でも疑問を日本中で誰かが抱えながら生きている。
東京でも仙台でも日本という国の構造は変わらない、将来に希望の持てない社会で生きていくことの意味を考え始めたとき、僕は世界を見てみたいという衝動に強く駆られるようになっていました。
世界はどんなふうになっているんだろう、僕は日本という共同体に安住しながら、本を読んだり、新聞を読んだりテレビを見ては、世界のことを考え続けていました。
しかし、そういった媒体はすでに情報統制というコントロールされたものであり、あまり意味をなしていなかったように思います。

世界中の人が何を考え、どんな環境で仕事をし、恋をし、子供を育て、人間はどのように老いて死んでゆくのか、本当に悲しいくらい、僕は人間が生きている世界をリアルな臨場感をもって想像することができませんでした。
あまりにも無知、僕は世界とそこに住む人間をあまりにも知らなさすぎることに思い至りました。
もし許されるなら1年や2年位、僕が世界中で人に会い、見て、食べ、感じ、世界の荒野を自分の足で歩き続ける道の先に何があるのだろうか?

好きなだけ世界を見た上で、日本に帰ってきて働き続けるのであれば、青い鳥はやっぱりそこにいたのだと納得することができるはずだ。
日本という社会制度からの離脱、この反社会的な行動を僕は夢想し始めました、
人間はいつか死ぬこれは覆らない、ならば今を生きてみたい、心からそう思いました。


世界の姿を探し、自分の現在の像を探し、見つけては壊し、燃やし尽くすような衝撃。
予定調和のない世界、頽廃的なストイシズムをはらんだ至福の刻、そんなエゴイスティックな衝動がいつも渦巻いていましたのです。
その頃、わずかながらも自分の像を頭の中でイメージし、重ね合わせシュミレーションしていたのは沢木耕太郎の「深夜特急」でした。
19の頃、無免許で単車を購入し、東京から仙台へ里帰りする下道の国道4号線、その距離に移動することの衝撃すら覚えていた、僕が出会った本の中の果てしない世界。
これまでの常識を覆すような、世界中の距離感を意識しながら、船、バス、徒歩による地を這うような移動を旅という形に置き換えてみたい、そんな結論が見えてきたのです。

「男は27歳までに旅にでなくてはいけない」
その本に書かれた、全く根拠のない言葉を胸に、僕は自分自身を鼓舞していたように思います。
しかし、タイムリミットは迫ってきていました。

生まれ育った仙台との別れ、いつ終わるともしれない移動の開始
2004年3月、26歳の年、不安と高揚の気持ちでまだ寒い外気の中バスに乗って仙台駅へ向かう。
友達、親家族に盛大な送別会もしてもらったし、弟が見送りに来てくれた。
まずは南へ、南へ、壮大な計画と不安。ユーラシア大陸、アフリカ、南米、バックパックひとつに荷物をまとめ世界一周の旅行に出ました。
資金は100数十万円これだけで何年位、時には仕事をしながら世界を見て回れるのだろうか、帰ってこれるのだろうか。
僕は子供の頃に覚えた、罪悪感と背徳感を思い起こしながら仙台を旅立ちました。

苦しみつつ 
なお歩け
安住を求めるな
この世は巡礼である

僕がまず向かった先は沖縄、全く理由は無かった、今でもなぜ沖縄だったのか不思議なくらい思い出せない。
旅に出たその日から、行動の決定は全て自分の自由にゆだねられていて、沖縄に行先を決めることを誰かに納得してもらう必要は全くなかった。
だから、今思い起こしても、なぜか思考がすぽっと抜け落ちている感がある。
チケットの買い方を知らなかったものだから、羽田から迷わず当日券、今思うとかなり高い。
とりあえず南へ、生まれてはじめて飛行機に乗った。

座席のリクライニングかと思って連打したボタンがキャビンアテンダントの呼び出しボタンだということも小走りで駆け寄ってきた笑顔の女性にはじめて教えてもらった。
機内での飲み物もタダだとはじめて知った。


深夜ふいに降り立った那覇は一辺、生ぬるい大気に包まれていた。
とりあえず今夜の寝床を求めてふらふらと歩き、1500円の宿があることに感動する。
その日から僕の沖縄放浪が始まった。

ペラペラの容器に入った300円の弁当を飽きもせず食べ続け、400円の大盛りソーキそばに魅了された。
移動はひたすら徒歩だった。
時間は有り余るほどあったから、スピードは必要なかった。

2週間ばかり沖縄本島を歩き回った後、先はまだ長いのだから、急かされるように沖縄を離れなくてはと思う。
そのころ、旅先で得たつながりの中で八重山の石垣島から船で台湾へ行けるらしいという情報をつかむ。
沖縄新港から船で石垣島へ渡ることにした。

当時はまだ有村産業が破綻しておらず、人が安い料金で、フェーリで石垣島に渡れた古き良き時代だった。
大きなザックとジャンベを抱えたドレットの若者、顔の濃いうちなんちゅうの里帰り、青い目に金髪。
ごったな乗客が車座で座り、生き生きと笑顔でしゃべる。
飛行機では見られない活力に僕も高揚していた。
自然と同室の人が集まり、自販機で買った泡盛のワンカップを片手に、やまとんちゅうも、うちなんちゅうも、打ち解けていった。
「にいにい、一緒にに飲まんか」
同室だったグループの年長者のうちなんちゅうに誘われた。
美容院のチェーン店を経営しているうちなんちゅうのおじさんと、船が沖縄を離れて石垣島につくまでの間、旅人も、おじいも、おばぁも、外人も、車座になって、いろいろな話をした。
その人うちなんちゅうのおじさんに「いちゃりば、ちょうで~」という言葉を教えてもらった。
出会ったら兄弟という意味である。

僕はあくまでも沖縄の人から見たら通り過ぎる旅行者であり、そういった壁の向こう側でしか人として接してもらえていなかったし、それまで沖縄の人とちゃんと打ち解けて話をしていなかったことに気がついた。
先を急ぐだけの旅行者で、最初に思っていた「世界中の人が何を考え、どんな環境で仕事をし、恋をし、子供を育て、人間はどのように老いて死んでゆくのか」その視点が全く欠けていた事に気がつきました。
自分の方に壁があったのかもしれない。
それ以来、僕は旅の中で出会った人たちと一緒に酒を飲むようになり、自分から人をさそって話をし、打ち解ける事を実践するようになった。

かくして、なんの予備知識もないまま、石垣島へ渡った僕は八重山の離島という存在に気がつく。
その当時僕はメルビルの「白鯨」にだいぶ毒されていて、バックパックの中にも新潮文庫の上下巻を忍ばせていた。
船というものにものすごくあこがれと畏怖の念を持っており、きっと自分の前世は船乗りだったのではないかと、たわいもない妄想までしていた。
沖縄から石垣島へわたる経験がとても素晴らしく、人間の活気に満ちていたので、石垣島の離島桟橋の人ごみと小型船のカオスを見たときまたぞろ船に乗りたいという希望が湧いてきた。

石垣島もそこそこに、次に向かったのは波照間島。
八重山の3月は初夏である。
大きな荷物とダンボール箱を抱えた島のひと、リッチそうな観光客、少しづつ埃で汚れてきた旅人の僕。
海の臭いと、高速艇が上げる水しぶきを浴びながら甲板で飽きずに深いグリーンの海を見ていた。

300円の弁当とワンカップ。

飛光よ 飛光よ 汝に一杯の酒をすすめん

潮風の中、昼間から酒を飲むという悪行に、僕は酔っていたのです。


波照間島の小さな桟橋に到着した船を降りると、島で一番安い宿に落ち着きました。
常に海の気配を感じる島という存在に魅了され、数日間平坦な島を徒歩で歩き回りました。
ヤギとたわむれ、アダンの実をパイナップルの自生と勘違いするほど離島にウブだった僕は、手持ちのお金がなくなっていたのでお金をおろそうと銀行を探しました。
しかし、どこにもないのである、この波照間島にあるのは小さな郵便局のみでした。
銀行のカードは持っていても郵便局のカードを僕は持っていなかったのです。
もはや所持金が数千円になり、帰りのフェリーのお金も危なくなっていることに気がつき始めた頃、安宿の掲示板に書いてあった「土木作業員募集、寮・食事付き」というチラシが目に止まった。
もともと旅の途中で仕事をすることもあるだろう、それが異国の地に長くとどまる事ができる方法だと、旅を続けながら考えていたので、そこに電話してみた。

1時間後、ボロボロの2トントラックの荷台に4~5人の男たちをのせた車が宿に横付けされ、レイバンのサングラスをかけた浅黒いコワモテの男が降りてきた。
宿の管理人と知り合いらしく、一言二言会話したあと、宿の管理人さんが僕を指さした。
いやな予感はしていました。
レイバンがこちらを向き、つかつかと寄ってきて僕に一言「乗れ」と短く言いました。
僕はとりあえず身の回りのものを全てバックパックに押し込んで、トラックの荷台に乗り込んだ。
荷台の男たちにジロジロ見られながら、この展開は一体どういうことなのだろう、理性が自分がまいた種を否定し始めました。
トラックの荷台に人を乗せて走るのは違法じゃないのですか?
親方、履歴書は必要ないのですか?
もしかして、これって採用ですか?
などと悪路をぶっ飛ばすレイバンに、何点か質問することが頭を駆け巡った後、むなしくも僕はその後すぐ現場に連れていかれ、着のみ着のまま、その日から波照間島の用水路の工事に参加することになったのです。

仕事中はとにかく暑くて水ばかり飲んでいたように思います。
生まれて初めて入った飯場で、10数人ばかりの石垣島からの業者のグループと共に寝起きし、同じ釜の飯を食い、生コン打ちが終了するまで3週間休みなく働き続けました。
世話役のレイバンはこの公共事業で数百万の利益が入るらしい、工期が遅れている、などと憎悪が渦巻く中。
毎晩仕事が終わると、やっぱり泡盛が登場してきて飲み会が始まるります。
3日に一回はつかみ合いの喧嘩が起こるような環境で、ただひとりのないちゃーとして攻撃の対象になることもしばしば。

世界にも日本にも沖縄にも正しい人悪い人はまんべんなく存在していて、そんな時僕をかばってくれた人もたくさんいました。
そのような偏見を持たない正しい人たちとは、その後、与那国島に住むようになってからもずっと交流がありました。
中でも川上さんというおじさんは、数年前亡くなったのですが、若かりしころ名古屋でヤクザをやっていた人でした。
金にまつわる権力闘争や、度重なるヤクザの抗争に巻き込まれて嫌気がさし、組を抜けようとした時の話をドラマチックに僕に語ってくれたことがありました。
リンチやらそうとうひどいことをされたようですが、組長幹部と直談判を繰り返し、退職金までぶんどり、指も詰めずにカタギの世界に戻ってきた経歴を持った男気のある人です。
その川上さんが僕に言った言葉で、今でも心に残っているのは「てつ、石垣島に住んでいて一番嬉しいことは何かわかるか?それは俺が一度でも会って酒を飲んで話をした人間がもう一度石垣島に会いに来てくれることだ」
与那国島に住むようになって僕もわかりましたが、観光地に住んでいると、人と人との出会いや別れがとても多いのです。
日本最西端の国境に位置する与那国島は、一度くれば十分、日本の最果てまで来たという満足感を残して去ってゆく旅行者も多いのが実情です。
ただ、通り過ぎるだけの旅行者とわかっていても、言葉を交わしたり、何らかの関係を持つと、僕もどうしても情が移ります。
これは、人生のある一瞬でも旅に生き、人と触れ合うことで沖縄に教えられてきた経緯があるからかもしれません。

僕が今の仕事で、一日一組だけのお客さんを真剣にもてなそうと考えているのは、お客さんをお金を払っていただく以上に人と人との付き合いがしたいと切に願っているからだと思っています。
川上さんが言ったように、僕も「もう一度与那国島に会いに来てこれること」を心の中でいつも想っていて、今でもそれがRistoranteTETSUの原点にあるのだと信じています。

波照間島は、僕が初めて住んだ異国の地になりました。
いつもそこにあった海と南国の植物、夜に見上げれば外灯も街の明かりもない空に浮かび上がっていた星空。
その光景は今でも想い浮かべることができます。
みんなでバーベキューもして、ヤギ鍋も食べ、釣りも教えてもらったし、仕事以外の思い出も作ることができました。

3月下旬、レイバンと波照間島に別れを告げて、石垣島に戻った僕は、しばらく川上さんの親戚の家に居候することにしました。
車を借りてドライブをした石垣島も、徒歩と違う風景と広い行動範囲を楽しむことができました。
そうこうしているうちに、沖縄に来てひと月以上経ちました。
同じ日本でも、これまでと違った世界があり、こんな島で暮らせたらいいなと、世界一周の目的を忘れそうになりつつ日々は過ぎていきます。
世界一周から帰ってきても、またこの島に来たい。

次に僕が向かったのは、残念ながら台湾ではありませんでした。
とりあえずお金も少し入ったし、与那国島の海底遺跡がどうしても気になっていたので、本来の旅の目的である世界一周はまだ先でもいいか、と自分に言い聞かせ、友達はまだ沖縄にいるのかとあきれるばかりでした。
思えばその頃既に、海外に出る前のモラトリアムだったはずの沖縄にどっぷりはまっていたのだと思います。
八重山には旅人を思いとどまらせる魔物が住む。
そんな危うい気配を感じながらも、次の目標を与那国島に定めました。

経費削減のために、与那国島では安宿で、自炊を目指していたので、まだ物価の安い石垣島から、米やポークや泡盛を担ぎ、フェリーで4時間、一路与那国島を目指すことにしました。
ここまで読み進めてきた方はうすうす気がつかれるかもしれませんが、与那国島でもいろいろあったのです。

「与那国島編」に続く
僕はなぜ与那国島に住んでいるのか 1 「世界一周編」








Posted by Moist Chocolat at 19:21│Comments(1)
この記事へのコメント
夢中で読んでしまいました。

今から与那国島編へと行ってまいります
Posted by 佐々木愛 at 2013年03月30日 06:51
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