石垣島の米軍統治下で作成された戦略地図。
石垣島に住む山里節子さんは1955年、米国内務省ヘレン・フォスター女史を団長とする地質・土壌・植生の学術調査にフィールドアシスタントとして参加した。沖縄本島での全域調査は、1950年から朝鮮戦争の混乱をはさみ、1955年に完了。その後の2年間で石垣島と宮古島を調査するものだった。
戦後の傷跡も残る沖縄で当時、英語を学ぶことが生きて行く為に最も必要な事だと考えたという。英語学校に通うなかで、山里さんの生まれ故郷であった石垣島での土地勘が評価され、通訳とフィールドアシスタントとして米国の調査団に採用された。
2年間にわたる調査結果は膨大な地図となり、後にレポートと共に山里さんに記念として手渡された。後年、その地図を詳細に調べて行くと、それは単なる地質学の調査ではなかった事に気がついたという。
この調査結果はワシントン経由でペンタゴンに送られ、軍の上陸攻撃地点や軍事施設の建設場所を示す戦略地図となっていた。さらにその地図は旧日本軍の作成したベースマップが元になっていたことを知った。
当時、ソ連とアメリカの対立が深まる最中、反共の砦として石垣島を含む先島諸島が軍事要塞化されたかも知れない可能性をこの地図は示唆している。 ベトナム戦争に於いては「悪魔の島」とも呼ばれた沖縄が軍事基地への傾斜を余儀なくされたように、先島が東西の戦火の最前線にならなかったのは、歴史の僥倖と呼ぶしかない。
精緻な調査は、軍港を作る際に必要な水深のデータ、基地建設に適した地盤や建設資材となる岩石の調達地や地形植生が書き加えられている。
“Know Your Enemy” 「汝の敵を知れ」との言葉の通り、アメリカは先島諸島を徹底的に研究し、支配しながらも、最悪の事態を想定していた。島々を戦場にする計画と同時に、奪還攻撃をも視野に入れた壮大な戦略を見通していたことに戦慄を覚えたという。
生活の為とはいえ、自分の英語力が結果的に軍の戦略研究に加担してしまった事を今でも悔いていると山里さんは語る。
1979年、かつて石垣島で白保の海を埋め立てて飛行場が作られようとしていた時、彼女自身反対運動にも関わった経験があり、この時の計画立案も地図が元になって進められていると危惧したという。幅65m×2500mの滑走路は不釣り合いに巨大な計画であり、民生用だけではなく、軍事施設への転用が可能になると訴えた事もあった。まさに海洋のシーレーン構想は、旧日本軍の時代から、アメリカ統治、沖縄振興の空港建設から、現代の自衛隊配備問題まで脈々と繋がっていると、今でも警鐘を鳴らしている。
現在石垣島で陸上自衛隊が基地建設を進めようとしている。今だからこそ、贖罪の意味を込めて61年前の地図を公開していると涙を流し語る場面もあった。
石垣島の山里さんに手渡された地図は、学者であったヘレン・フォスター女史と彼女の間で受け渡された歴史のバトンなのかもしれない。当時、沖縄を支配する側であった米国と、石垣島の未だ若き佳人が出会い、どのような友情が交わされたのか、直接私に問いかける言葉はなかった。国境を越えて、南洋の宝石のような新緑の島で過ごした2年間は、国籍の違う二人を結びつけたのかもしれない。
フォスター女史は彼女に地図を渡した時に「公共のために使って下さい」と言ったそうだ。
合計2時間にも及ぶインタビューの中で、いまや80歳に成ろうとしている山里さんの石垣島への想いと、色あせない輝きに素直に心打たれた。きっと平和の命脈を繋ぐのは人と人の信頼であろうと、この地図を巡る国家の思惑とは別に、立場を超えて人は人である。強く生きようと二人の女性が暗黙のうちに交わした約束は、今の私には想像するしかない。だが、光は今も輝き続けていると感じる。言葉と歴史の洗礼を超えて地図が生き続けた事実と、積み重なった物語りの重みだけが全てを表していた。二人が交わした平和への希求に、語り得ぬものは沈黙せねばならない。